妙高周辺の山 薬師岳、柳原岳

 

4月29日~30日

 

 

 

妙高山から雨飾山まで至る頚城の山々はそれぞれが個性のある山容を連ならせており、どれも魅力のある素晴らしい山だと思います。

 

またこの山域は古くから信仰の対象とされていたそうで、かつては修験者がこの山域で修行を積んでいた歴史があるそうです。

 

そんな信仰の名残なのか、地図を眺めると周辺にはいくつかの山があり、その中で宗教を模した山名がいくつか見られます。

 

それらの山も地図上で見る限りある程度の標高があってそれなりの山容のようにも思えます。

 

ただそれらの山は頚城連山と乙妻山、高妻山といった高峰の狭間に聳えるが故、どうしても見劣りがちとなり、登山対象からは外れ、いつしか忘れさられてしまった山なのではないかと考えました。

 

もしかしたら何かと注目され賑わいを見せる名山たちの陰に隠れた、実は不遇の名山なのではないかもしれないと思い、今回訪れてきました。

 

 

 

 

 

今年は雪解けが遅れたとのことで4月28日にようやく笹ヶ峰まで除雪が完了したとのことでした。

 

車はその笹ヶ峰火打山登山口の駐車場から少し先の橋まで入ることが出来ました。

 

そこから杉の沢橋まで林道を歩くこと約30分、橋を渡るとすぐに右側の斜面に取付きました。

 

今年は残雪が多いとのことで斜面に藪は見られず、その代わり林道歩きが大変でした。

 

行きの林道歩きは30分程度で済みましたが、下山時に予定している林道歩きは10キロ近くにもなり、かなりの時間を要しそうで、考えただけでも末恐ろしいです。

 

 

 

薬師岳へと至る尾根は例年ですと雪が落ちて藪になっているだろうと思われるような痩せ気味の斜面も雪堤がしっかりと残っており難なく登ることができ、束の間の痩せ気味斜面も一部のみで、特に広くも狭くもなく、変哲のない尾根を登りきると簡単に最初のピークである薬師岳に到着しました。

 

山頂は広く、360度の景色を眺めることができます。

 

目の前には金山と焼山が大きく聳え、金山は尾根が繋がっているのでこのまま簡単に登って行けそうに思えます。

 

金山の隣には煙が上がる焼山と、そこに火をつけようと火打石ならぬ火打山が青空のキャンパスに綺麗な白い曲線を描がいております。

 

後ろを振り返ると広大な山と森の海の果てに乙妻山と高妻山の高峰が一際高く聳えております。

 

 

 

次に目指すは柳原岳、ここから県境尾根を下ってまずは乙見山峠を目指しますが、意外に急な登り下りが激しくて下りだというのに薬師岳の登りよりも苦労して乙見山峠へと辿り着きました。

 

ここは小谷温泉へと続く林道のトンネルの上部を通過しているのでしょうけれどすっかり雪で覆われた林道はその形跡すら確認することができないほど積雪があります。

 

名前の通りここからは乙妻山を眺めることができます。

 

時刻はまだ午前10時を過ぎたばかりです、一泊二日の装備できたのですが高度的にはあと250m登れば柳原岳山頂です、距離はそこそこありますが楽勝気分になり「こりゃあ日帰りでよかったなあ」などと思いながら、まずは前衛のピークである松尾山へと向かい歩を進めました。

 

ところがここからが大変でした、残雪が多く残っていて藪で苦労するようなことはなかったのですが、とにかく登り下りの激しいこと、あまりの雪堤の登り下りに辟易し、途中から藪尾根を登ろうとすると尾根上にははっきりとした踏み跡があり、中には登山道並みに歩きやすいところまでありました、県境尾根にはある程度の道がついているようです。

 

いくつも激しい登り下りを越えるとようやく松尾山直下まで辿り着くも、大きな雪壁が阻み、疲れた体にはとても毒です、ここは無理せず山頂はスルーすることにして、巻いて先へと進みました。

 

 

 

そうこうするうちにやがて空には黒い雲が立ち込め遠くではゴロゴロと不穏な音が鳴り響くようになります。

 

ある程度、天気予報を見て崩れるということは承知しておりましたが雷まで鳴るとは・・・。

 

以前にも朝日連峰で、遠くで鳴っていた雷が、次は目の前でピカッとひかり、いきなりドーンとあたりを揺るがす地響きとともにやってきたことがありました。

 

この時以来、山の雷は待ったなしということを覚えました。

 

「早く隠れなくっちゃ」、急激に荒れ狂う空模様、強風と叩きつける大粒の雪の中、雨具を着るのももどかしく、近くのおあつらえ向きのブナの木の洞へと体を潜りこませました。

 

ちょうどお昼時の休憩にいいタイミングで、そのうち止むだろうからと、ここで昼食タイムとしました。

 

私自身、いつも山での昼食はほとんど立ったままちょっと食べて終わる程度ですが、今回は雷様が行くまで長い休憩となりそうです。

 

子供の頃、ばあちゃんから雷様が鳴った時は「雷様、雷様どうか信濃の国へ行ってください」とお祈りしたことを覚えています。

 

それを思い出し、お祈りしようと思ったのですが、良く考えてみるとここは信濃の国と越後の国との県境です、浅はかにも雷神様に向かってそんなお祈りを捧げようとするところでした。

 

 

 

強く降る雪の中でしたが、寒さは感じず、天気予報では崩れるのは一時的なものであるとのことでしたので、いずれ青空は戻ると思って我慢の休憩となりました。

 

こんな木の洞の中でも意外と居心地は悪くありません、まるで熊になったような気分です。

 

「クッション材と断熱材用の落ち葉を拾い集めてこのまま眠ってしまおうか」などと考えたくなる気分です。

 

 

 

いつまでもピカッ!ドーン!の繰り返しは終わる兆しが見えず、まさかこのまま木の洞で一夜を過ごすのはさすがに凍えて無理でしょう、昼過ぎではありましたが今日はここで行動をストップし、狭い雪堤の木々の隙間を何とか整地してテントを張ろうと考えました。

 

 

 

木の洞でウトウトとまどろんでおり、動きたくもなかったのですが眠い目をこすりながら飛び起き、整地をしようとスコップを出し始めたころ遠く妙高山のあたりで稲光が見え、ゴロゴロとした音も遠ざかってきているようです。

 

「そろそろ雷様も遠くへ行ってくれたようだ。」

 

結局1時間半もの間、木の洞でくつろいでいた形となりました。

 

 

 

長い休憩のお蔭であの激しい登り下りの疲れは取れ、再び急な雪の斜面を登っては下り、登っては下りを何度か繰り返しやっとの思いで柳原岳山頂直下と思われるところまで辿り着いたところで高度計を見て唖然としました。

 

なんとあれほど歩いたのに乙見山峠から高度は30mしか上がっていませんでした、なんとも効率の悪いルートだろう!

 

 

 

最後にまた登って下って、そして登って山頂と思われるところまで来たのですが、平坦で小さな凹凸のあるところがこの先ずっと続いていて、どこが山頂なのかよく分かりません。

 

そんな凹凸を山頂求めてふらふらと進んでいきます。

 

目の前にある小さな突起が山頂かと思ってそこまで行くとさらに目の前に小さな突起があってきりがありません。

 

もうここは行くだけ行ってみようとかなり先に進んでしまったように思います。

 

完全な下りにさしかかるところまで到達したところで引き返しましたが、戻りながら地図で確認すると堂津岳方向に結構進んでいて、実際の柳原岳はとうに通り過ぎていたようでした。

 

主尾根からやや外れた場所にあった山頂へ改めて行ってみましたが、休憩することもできないほどのほんの小さな山頂にはブナの木と桧の木が一本ずつ生えているだけで、確かに気が付かずに通り過ぎるほど山頂らしからぬところでありました。

 

 

 

結局、激しい登り下りに加えて雷様の襲来ということもあって乙見山峠からあまりにも時間を費やしてしまいました。

 

そこで無理に下ることはせずに、少し戻ったニグロ川に下る尾根の途中にテントを張って一夜を過ごすこととなりました。

 

出来るものなら日帰りで帰りたかった、三日後に4泊5日の大縦走を予定しているので、できれば一日でも早く下って体力を温存しておきたかったと思いました。

 

ところが夕刻には青空が戻り、美しい妙高の夕焼けを見た時は「やはり山は泊りで来るものだな」と感じました。

 

 

 

翌朝は予定通り二グロ川沿いの林道に向かう尾根を下りましたが、ここは登り返しなど一切なく、素直に林道へと下ることが出来ました。

 

高度250mを下るだけなので時間は30分程度しか要しませんでした。

 

 

 

あとは延々と続く林道でしたが早朝ということで雪が凍み付いていたので然程苦労することなく笹ヶ峰へともどることができました。

 

林道を歩いている途中で雪上バイクの人とすれ違いました。

 

すれ違いざまに「今日の作業はもう終わりですか?」と聞かれ、なんでそんなことを聞くのだろうか?不思議に思いましたが、よくよく考えてみると作業服を着ていたので何か森林関係の作業員にでも間違われたのかもしれません。

 

火打山の高谷池ヒュッテに宿泊客としてくつろいでいた時も何度か管理人さんに間違えられましたし、作業着を着て山に入るということは職業を変幻自在に変えることが出来るものだということに気が付いた山行となりました。

 

 

 

 

 

さて今回は頚城連山の周辺に聳える山を訪れてきたわけでありますが、冒頭でも書いたように頚城連山の峰々では妙高山を中心に山岳信仰が盛んに行われていたという歴史が残されています。

 

妙高高原町史の中で妙高信仰について書かれていたことを要約して転記しますと、関山神社の社記「宝蔵院文書」によれば、和銅元年(709)裸行上人が初めて妙高山に登頂、神霊に感じて麓に三社権現を歓請、開山し、関山権現を創始したと記している。

 

裸行上人は熊野修験者に同一名人物があることから妙高信仰は熊野修験者が本筋とする説がある、しかし関山権現の御神体である銅造菩薩立像はすでに奈良時代からあったと考えられることから、熊野修験が本筋であるかどうかは不明である。

 

近世に記された「越の後州関山大権現毎蔵帳」によると白山大権現と新羅大明神が関山神社の祭神として出てくる。

 

この祭神は古代関山神社が成り立った時代からの関山権現の歴史を示しているのであろう、このことから白山修験に加えて熊野修験の流入が考えられ妙高関山神社は各国修験者の溜まり場として発展していったと思われる。

 

終戦後まもなくの頃、能生町中尾の伊藤多吉が火打山山頂の三角点工事をしたときにたまたま山頂に埋蔵された十一面観音菩薩二体を掘り当てた、これは白山妙理大菩薩本地仏十一面観音菩薩の御神体として埋蔵されたものであろう、これらを総合的に勘案すれば、かつて妙高五山こそ仏界に形どった妙高曼荼羅として考えられていたことが分かる。

 

とされています。

 

 

 

これだけ多くの山岳信仰の歴史があった頚城連山ですから周囲の山にもその影響があっただろうということは容易に考えられることだと思います。

 

金山で修行の場と鉱物資源を求め修験者が入り込み、さらなる修行の場を求め、尾根で繋がっている薬師岳まで足を延ばして、御薬師様を祀ったという可能性は、途中にある天狗原山などといった地名からしても十分に考えられることだと思いました。

 

 

 

柳原岳に関しては、宗教色がなくなり、近くに聳える堂津山などの峰々からも宗教的な雰囲気は無くなってしまいます。

 

柳原とは単純に原っぱに柳の木が生い茂るところにその地名がつけられるようで、全国各地に柳原という地名が存在しているようです。

 

しかしこの柳原岳に柳が生えているなんてことは考えられず、実際に山頂には桧とブナの木だけがありました。

 

可能性としては山裾を流れる広大な二グロ川の河原に柳の木が自生しているとこから名付けられたということが考えられます。

 

 

 

コースタイム

 

4月29日

 

笹ヶ峰除雪終了地点 35分 杉の沢橋 2時間20分 薬師岳 1時間30分 乙見山峠 5時間(途中で木の洞に避難) 柳原岳 40分 幕営地 

 

 

 

4月30日 

 

幕営地 35分 二グロ川林道 2時間20分 笹ヶ峰除雪終了地点