女川街道(蕨峠、女川五淵平、勘倉峰、長谷峰)

 

平成28年5月3日

 

 

 

その昔、平安時代から鎌倉時代、江戸時代にかけて新潟県の関川村や村上市と山形県の小国町の間には多くの道が切り開かれたそうです。

 

私はそれらかつて多くの道があったとされる女川流域から奥三面にかけての区間を、時期を見計らっては通い続けております。

 

この区間の尾根は異常ともいえるほど痩せていて、奇岩を越えるようなところが多数あり、また深い藪に鎖されているうえに豪雪地帯といった悪条件が重なり、他の山域とは比べ物にならないほど入山するには非常に困難なところとなっていると思っております。

 

そんな場所に昔は道が多くあって、そしてその道を利用して物資を運んでいたというのですから、昔の人はいかに足腰が丈夫だったものかとても凄いと思います。

 

それら古道の詳細については関川村史や小国町史、小国町の交通といったあたりの書籍に書かれており、それらの文献を読んでみると、そんないくつかあったとされる古道も人の往来が多い主要だったものは整備が進んで立派な道路へと変貌した移り変わりが克明に書かれております。

 

また需要の少ない古道は徐々に消え去っていき、今となってはそれらの大半はそのほとんどの跡形がなくなっていったものと思われます。

 

そんな消え去る運命を辿った古道の中で地元民にいつまで根付き、それは交通路から農業用水路の点検道や山菜採り道、釣り師による河原へと通じる道などに役割を変えながら細々と利用され続けているものも極少数ではありますが残っているようです。

 

私はそれら生き残った古道を何とか利用して周辺に聳える道無き山々を訪れることはできないものかあれこれ思案しておりました。

 

 

 

今回、訪れたところもかつて女川街道と呼ばれていて新潟県関川村小和田集落―湯蔵山―横松―清水渡場―五淵平―蕨峠―勘倉峰―山形県小国町入山集落を結んでいた路線だったそうです。

 

小国町発行の書籍「小国町の交通」によると、このルートはおそらく平安時代に奥山荘城氏によって整備されたものであろうとされています。

 

永承5年、出羽守兼秋田城介である城繁成が安倍頼時と鬼首で戦って敗れ、小国に入り更に西武山地の蕨峠を越えて清水の渡場をわたり湯蔵山を越えて小和田集落に止まり、ここで女川下流地域開発に当り、女川街道もそこで整備されたとしています。

 

鎌倉時代になるとこの街道はそれまでは原則自由通行だったものが物資の密輸、特に塩の密輸防止のため慶安2年に横松に番所が設けられたとされています。

 

この横松から八つ口集落と聞出集落にも道がかつては通じていたそうで、昭和42年の羽越水害時に国道113号線の橋が流失したときにこれらの古道が活躍したとのことです。

 

 

 

この横松は国土地理院の地図でも場所を確認することができ、私自身も横松へは2度行ったことがありますが、かつて使われ羽越水害時に活躍したとされる古道はすっかりと跡形がなくなっており僅かな痕跡ですら確認することができませんでした。

 

また番所の形跡として周囲には土塁や空壕の跡が見られるとのことですが、それらについてもまったく確認することができませんでした。

 

 

 

 

 

さてようやく本題に入りますが、平安時代に整備されたとされる女川街道は山形県側にその道径が残っており、現在でも山菜採りや五淵平へ通じる釣り道、あるいは光兎信仰から派生した沖庭権現が祀られる沖庭山への登拝路として地元の人たちから整備されている古道です。

 

今回は小国町の入山集落から蕨峠を経て女川河川敷である五淵平まで足を延ばし、五淵平の向かい側には女川山塊最高峰の頭布山が聳えており、そこから派生する尾根に取付くべく女川の渡渉点を探ったあと、再び蕨峠へと戻り帰路の途中で勘倉峰と長谷峰の山頂を踏んできた、そんな古道を満喫した山行について書いてみることにしました。

 

 

 

 

 

今年のゴールデンウィークは全体的に天候が良くなく、いろいろ予定していた山行をとりやめました。

 

そして5月3日だけが唯一晴れ予報だったのでこの日一日のみ日帰りで羽越国境の女川街道と云われた古道を歩いてみました。

 

 

 

入山集落に入ると数日前までなかった「集落以外の方は入山禁止」と書かれた立札が立っていて、ちょうどその立札の前を通ると向かいの家のお母さんが洗濯物を干しながら私のことをじっと見ています。

 

なんだか怒られそうな気がしたので「山菜採りではなく蕨峠に登りに来たんで」と声を掛けると「まだ山菜は出てないから大丈夫でねえか、それにおめーさん一人くらいなら山菜採ってもいいよ、どうせ大して採れねえだろーからね」とのこと、これで入山集落の通過は一応クリアできたようです。

 

そして、かつては人や馬、荷車などが往来していたと思われる古道に沿って車を入れられるところまで乗り入れ、長谷峰をかすめた付近の林道隅に車を置いて、そこから蕨峠に向かって歩きはじめました。

 

途中、沖庭神社へ向かう林道と道は分かれますが、林道はここまで整備されているようで、雪がなくなれば車の乗り入れも可能であろうと思います。

 

 

 

記録によると古道は勘倉峰の山頂を通って蕨峠へと続くようですが、現在は勘倉峰を大きく巻くように道は切られております。

 

この道は登山者が歩くことなどほとんど無いと思われるので足元は柔らかく安定してなくて、歩きにくさを感じながら蕨峠へと至りました。

 

ここは蕨峠という名前になっていますが、実際のところ一つの山の山頂です。

 

峠と言うと大半は鞍部であると思われますが、ここはそうではありません。

 

この蕨峠も山頂を巻くように道が切られていて、山頂を踏むにはほんの僅かな距離ではありますが、密藪の中を歩かなければならないようです。

 

しかも山頂は見晴らしが良くなさそうなので、蕨峠の山頂は踏まずにそのまま道に沿って歩を進めました。

 

蕨峠から女川まで高度にして500mも下ります、道沿いにはちょうど食べ頃のコシアブラがちらほら見えます。

 

私は入山集落の洗濯物を干していたお母さんに「山菜採りではありません」と言っていたのでコシアブラ採取は我慢して先に進みます。

 

それからも沿道には美味しそうなコシアブラがたくさん自生しております。

 

「まいったなこりゃ」手を伸ばせば簡単に採れそうなコシアブラを目の前にして辛抱の山歩きとなりました。

 

300mほど下るとそれまで明瞭だった道も藪がうるさくなり少々歩きにくくなります。

 

木の枝に掴まりながら女川に向かって下降するも、掴まった木がコシアブラだったりで非常に気が滅入ってしまいます。

 

仕方がないので目を閉じて歩くのですが、目を閉じても暗闇の中からコシアブラの瑞々しい緑色が脳裏に浮かんできてどうにもなりません。

 

苦しくなって目を開ければ本物のコシアブラがすぐ目の前にあります。

 

あの洗濯物を干していたお母さんは「山菜は出ていない」と言っていたがそんなことはない、ここはコシアブラの楽園で、しかも今がちょうど採り時、旬なのであります。

 

確かに蕨はまだ早いようですし、ぜんまいは逆に遅いくらいではありますが・・・。

 

「これはお母さんに一杯喰わされたな」私は我慢のしすぎのためか心身ともに疲労し、すでに身も心もぼろぼろになっていました。

 

そんな状況の中、なんとか五淵平と思われる女川の畔まで辿り着きました。

 

そこは河原ではなく川から10mほど登ったところに広い大地があり、雑木林の藪となっておりました。

 

道もここまでしかなく、女川街道と云われた道は女川に沿って下流側へ伸び、清水の渡場というところから番所があったとされる横松に向かって登っていくようにつけられていたとされておりますが、私は藪をかき分けながら女川に沿って反対方向の上流へと向かって歩いてみました。

 

女川を挟んで目の前に聳える頭布山は非常に間近に見えます。

 

頭布山からいくつか派生している尾根を、女川を渡渉してどれかに取付けないものかあれこれ探ってみました。

 

秘境、女川流域の最高峰である頭布山ですが、ここ近年は訪れる人が増加しているようで人気沸騰中のようです、しかしここから頭布山に登られた記録はまったくありません。

 

確かにここは女川といった大河の渡渉があるうえに高度差を考慮すると頭布山を登頂するには非常に効率が悪いルートになるように思います。

 

女川渡渉については胴突き持参で来れば渡れないこともないが、ちょっと怖い気もします。

 

もう少し残雪がある時期に来てみなければ何とも言えないといった判断をして、とりあえず今日はこれで戻ることにしました。

 

それにしてもこの五淵平でもコシアブラが豊富に見え、これは非常に目の毒です。

 

針のむしろに座っているような気持ちにさせられ、このコシアブラ地獄に私はノイローゼ一歩手前となっております。

 

そういえば以前にもコシアブラ採取を我慢して帰ったことがありました、その時は帰ったあと、その日の夜からコシアブラの夢を見るようになりました。

 

眠りながら布団の中で手がコシアブラの芽を摘んでいて、朝になると指が疲れていたなんていう日が数日間続いたことがありました。

 

「これではあの時の二の舞だ、このままでは帰れない、もうだめだ」我慢の限界となった私は「ひとつだけ」と呟きながら美味そうなコシアブラを摘んでみると、今度は「せっかくだし、ちょっとだけ食べる程度いただこうかしら」と呟きながら次から次へとコシアブラを摘んではあらかじめ準備していた袋の中へ・・・。

 

そして蕨峠に着く頃に袋は大きく膨らんでいます。

 

もし帰りにまたお母さんに会ってコシアブラ採取がばれたとしたらどうしよう?

 

「家族が病気をしているのでコシアブラを食べさせて元気になってもらいたいと思って・・・」とか「最近、会社が倒産して多額の借金を背負ってしまった、家には腹を空かせた幼い子供がコシアブラを待っている」などといった嘘の言い訳が浮かんできます。

 

 

 

蕨峠を過ぎると間もなく勘倉峰への分岐です、蕨峠から見た勘倉峰は素晴らしい新緑でした。

 

分岐まで来ると良く整備された道を外れ、かつて古道があったと思われる勘倉峰山頂へと向かって藪の中を進んでいきました。

 

思った通り勘倉峰まで僅かに踏み跡があり、本来なら大藪で歩きにくいところ、それほど苦労せず勘倉峰の山頂へと辿り着きました。

 

山頂は単なる藪、見通しがまったく利かない山頂で三角点を探しますが、あまりにごちゃごちゃとした藪で山頂付近をうろうろするのも一苦労です、三角点は諦め、下山することにしました。

 

ここから雪の斜面を適当に下って沢を越えて行くと再び道と合流し、車へと戻ることができました。

 

そして今日はこれからもうひとつの山、長谷峰に登る予定です。

 

どこから取り付こうか林道から長谷峰を眺めていると、林業業者が杉の植林地を伐採しているところがあり、距離もそこが最短のようだったので、そこから斜面に取付いて適当に上を目指して登ること僅か10分で長谷峰の三角点のところに出ました。

 

細長い山頂の付近一帯は私の身長よりも低い灌木帯となっており、小国方面がよく見えました。

 

 

 

そして再び車へと戻った私はきょろきょろしながら入山集落を通過して無事に家へと戻ることが出来ました。

 

つい出来心で山菜を採取してしまいましたが、ここはお母さんの許しを得て入山したということで御勘弁願えればと思います。

 

 

 

交通路として栄え、古の時代には人や馬車などが多く往来し賑わいを見せていた女川街道も今となっては、その形跡は草や木々に埋もれ、その大半は跡形もなくなっております。

 

僅かに残った古道を歩いてみて、古の人を偲びながら埋もれた歴史を感じてみるのも楽しい山の歩き方だと思いました。