火打山
天狗の庭から火打山
火打山
天狗の庭から火打山
常念岳
常念~大天井間、槍ヶ岳遠望
常念岳山頂より蝶ヶ岳方面
飯豊ギルダ原より北股岳
飯豊ギルダ原より門内岳
飯豊ギルダ原の紅葉
飯豊ギルダ原の紅葉
平成27年度
飯豊門内小屋管理人
近年SNS等の普及により仕事や趣味などにおいて簡単に多くの情報が得られるようになりました。
特に登山情報や山行の記録などはあまりにも多く溢れており、名のある山に関してはどれを見ればいいのか迷うほどの状況にあるようです。
それら情報を駆使することによって事前に状況を確認することによりトラブルが回避でき、より安全な登山ができるようになったことは特筆すべきことであろうと思います。
しかしその反面、私自身も経験がありますが情報があまりにも多く有りすぎるうえ、山の情報など個人差があるようなものもありますし、また個人的な主観が含まれていたり、また個人差があるような内容のものもあるでしょうから、結果あまりにも情報が錯綜しすぎてどれを信用すればいいものか分からなくなる場合もあるものと思います。
それから驚いたことはSNSなどを通じて山仲間なども簡単にできるようになったのはいいことでありますが、力量が分からない初めて会うような人と安易に山へ行くケースも増えているようで、それがトラブルの元となっていることも多々あるそうです。
時代の流れと言えばそれまでですが、私には信じられないことであります。
今回は久しぶりのホームページ更新です。
私自身、この夏はあまり山へは行きませんでした。
厳密にいえば少々は行ったのですが、平凡な時期の何の変哲もない山々のありふれた山行文を書いて掲載しても仕方がない、他に多くの山行記録があるのですから・・・。
まあそんな訳で今回は久しぶりの更新となりました。
とは言っても特段何も珍しい山行をしたのではなく例年掲載している門内小屋の管理人記録を今年も掲載することにしました。
今年はシルバーウィークなる連休が9月にあったわけですが、私はそれの前後の週末にあたる9月12日~13日と26日~27日の二回、管理人として門内小屋に入りました。
天気にも恵まれずあまり成果がなかった今年の管理人でしたが、それについて報告する前にちょっとシルバーウィーク期間中の静かでない山の山行を報告させていただこうと思います。
毎年のことですが大型連休になると飯豊などの私にとって地元の山は県外からの登山客で溢れることが予測されました。
そんなわけで飯豊や朝日と言ったところは遠方からのお客様にすっかり明け渡して、私自身も遠方の山々へ行こうと考えておりました。
またみちのくの旅にでも出ようかなと考えて、あれこれ計画をしてみましたが東北は連休前半の天気があまり芳しくなく、いろいろ直前まで迷っておりました。
あれこれ考えた末に私は95リットルのザックに二人分の寝具や食料を詰め込み、嫁を伴って、シルバーウィーク前半は一泊で妙高の火打山へと行ってきました。
テント泊りでの山行でしたが、これがまた酷かった。
火打山は頚城の山々の中でもとりわけ人気の山で、登山ブームと共に訪れる人は増加の一途を辿っているものと思います。
火打山はそれだけ美しく綺麗な山であり、そんなところへたまには罪滅ぼしにと思っての山行だったわけです。
予想通り登山口である笹ヶ峰は朝から多くの人で埋め尽くされ駐車場の争奪戦が始まりました。
私はそれを見込んで前日のうちに駐車場で車中泊をしていたので悠々として、いつものように朝寝坊をしてゆっくりと歩き始めました。
簡単に日帰りができる火打山に一泊で行くのですから時間的にはまったく余裕です。
今夜のテント場予定の高谷池にはあまりにも早く着きすぎるので妙高山を周って行くことにしました。
私は帽子が嫌いで、いつものように手ぬぐいを被って歩いていると、若い女性二人組の登山者がニコニコしながら私に話し掛けてきました。
何故か二人はあまりにも好意的に話し掛けてくるので「やっぱ俺ってもてるんだ」と思い、嬉しくなりました。
休憩しながらあれこれ山などの話をしていると、高谷池のテン場は早く行かなければ満杯になってしまうので焦りながら歩いていると言うのです。
おそらく午前10時にはテン場に到着すると思われる時間に焦っているというのですから私はにわかに信じることができませんでした。
富士見平から予定通り妙高山の方へと向かいましたが「あとでまた会いましょう」と言葉を交わして女性二人組はテン場のある高谷池へと一目散に向かって行くのでした。
しかし黒沢池ヒュッテまで来ると多くの登山者がテン場の争奪戦を繰り広げている姿が目に入りました。
そんな姿を目の当たりにした私は急遽妙高山行をとりやめ、慌てて高谷池へと進路を変えることにしました。
しかし急ごうにも95リットルの大きなザックは重い上に同行者がいるので早く歩くことが困難でありました。
せっかく来たのだから景色を楽しんでもらいたくもあり、焦る気持ちを抑えながらもやや急ぎ気味で高谷池へと到着したところ、テン場はもはや色とりどりのテントですっかり埋め尽くされているでありませんか!時刻はまだ午前11時です。
急いで手続きを済ませ、テントが張れるスペースを辛うじて見つけることができ、何とか事なきを得ました。
私の後に来た方たちはテントを張るスペースが無く、一時高谷池ヒュッテはテント難民で溢れかえるほどになりました。
結局、私の後に来た人たちは帰ることを余儀なくされていたようです。
もし遅くに着いてテントが張れず完全予約制のヒュッテにももちろん泊まることができないので、そんな人はどうされるのでしょうか?
暗い夜道を下山して行くほかないのでしょうか?これだといつか事故が起きるかもしれませんね。
山なのに街よりも人が多い、駐車場からはじまって泊場までも争奪戦を繰り広げ、それらに勝利したものでなければ山から下りるほか術がないなんて、こんなの有りなのだろうか?異常すぎる!
さっきの彼女たちは高谷池テン場の混み具合はネットを見て知っていたと言っていました。
やはり現代の登山事情を生き抜くにはそんなふうにして情報を駆使しなければ、思い通りの登山が出来なくなっているようです。
今や山は静かでなくなっているようです。
何はともあれギリギリ何とかテン場を確保できたので、火打山頂にはその日のうちに往復してしまい、あとはのんびりとその日を過ごしました。
夕刻になると私は一人天狗の庭に佇んでおりました、あれほど賑わっていた天狗の庭もさすがに人はいなくなります。
この時間はヒュッテの周辺が賑わっていて宴会をしている登山者で溢れているようです
私にとってこの火打山は想い出の山であり、初めて登った時の感動は今でも忘れることができません。
思えば25年前、山菜取りから登山へと発展?いや衰退?した私は最初に登山と言う形態で二王子岳へと登りました。
しかし春の嵐に晒され吹雪の中の山行となり、それは辛く苦しい登山デビューでした。
二度目はオンべ松尾根から飯豊の大日岳へ登りましたがこれも大雨の中の忍耐登山となり、三度目もまた雨の中のエブリ差で私は日帰りでしたが、その時に一緒に登った仲間たちは縦走予定でした、しかしあまりにも降りしきる雨に遭難寸前でようやく下山し、私は彼らを心配して迎えに行ったことを記憶しております。
そんな苦しい山行が続き「登山はもうやめよう」と考えましたが、最後に新潟県内の独立峰で一番標高の高い火打山に登ってからやめようと考えました。
当時はまだコンビニなど無く、自分でおにぎりをにぎって味噌と具を持参して夏空が広がる火打山へと向かいました。
その頃の登山口の笹ヶ峰駐車場はただ単に広い空き地でしかなく、登山の案内標識など一切なく、晴れた日曜というのに車は数台程度、しかもそれらは登山目的の車とは限らず、登山者は私一人と言ってもいいほど人に会いませんでした。
「登山最後の山」として登った火打山はまだ木道があまり整備されていない高谷池や天狗の庭はあまりにも美しく、私の心に大きな衝撃を与えました。
「山ってこんなに綺麗なんだ」。
夏の青空と湿原に咲き競う花々、誰一人いない天狗の庭の傍らで味噌汁を作って手作りのおにぎり食べながら、山に登って良かったと初めて感じた瞬間でした。
私は「また来よう」そう思いながら火打山を後にした、そんな記憶が今でも鮮明に想い起されます。
火打山は私に登山を続けさせてくれた山。
当時は静かだった火打山、そんな山が今ではゆっくり楽しむことができなくなっています。
火打山は木道こそ増えたものの、あの湿原や山の姿は健在で相変わらず美しいままです。
人が多く入り俗世に汚されつつある姿には少し残念ですが、あの美しさは不変であってほしいと願うばかりでした。
火打あるいは燧がつく山名は他にもいくつかあり、日本山名辞典によると日本全国で17座あるということです。
その中で特に有名なのはこの妙高火打山の他に山形県の神室連峰中にある火打山、あとは尾瀬の燧ケ岳等であろうと思われます。
それら山名は山容を火打石に見立てたとされているようですが、この火打山は妙高山、焼山といった火山に囲まれており、特に焼山は未だ活火山であり山頂付近からは煙を噴き上げております。
この妙高火打山はおそらくそんなところから火打石に見立てられ、この山名が付けられたものであろうと推測されます。
テン場では登山中に好意的に話し掛けてきてくれた若い女性二人組と再会したのですが、何か様子が変です。
あまり好意的ではなくなり、一緒に酒でも飲んで連絡先でも交換しようかと思ったのに、そっけない態度に変わってしまっておりました。
「何故だろう?」いろいろ考えてみてハッと思いました。
そう言えば頭に被っていた手ぬぐいをとってから彼女たちの態度が急変したように思います。
よく女性の皆さん、特に飲み屋の姉ちゃんなどには「髪の毛なんて関係ない」とか「ハゲでも大丈夫」などと言われますが、そう言えばそれは40代以降の人ばかりに言われるような気がします。
「若い女性ってそんなに髪の毛の無い人って嫌なのかなあ?」
火打山から帰り、私はすぐにまた次の山へと向かう準備を始めました。
連休は兼ねてから遠方の山に行こうと考えていたのですが、みちのくの山々は諦め北アルプス方面に向かおうと考えておりました。
槍~穂にしようか迷いましたが、あの火打山の人の多さに恐れをなした私は槍~穂は平日に行くべきと考え、連休の後半ということもあるし常念岳なら少しはマシかなと考え常念~蝶のルートに向かうことにしました。
火打山から帰宅して数時間後に今度は松本へ向かった私は知り合いの女性と松本駅近くで待ち合わせ、夜中に常念岳の駐車場へと車を走らせました。
心配していた駐車場も夜の時点ではまだ空きスペースは少々残っていて、無事に駐車場所を確保し、そこで仮眠をとりました。
明日からは私にとってほとんどが未開の地である北アルプスの一角へとのり込むのですが、急に行先を常念岳に決めたものですから下調べをする時間もなく、ただ慌ただしさに流され、行き当たりばったりに近い状態での山行となってしまいます。
山と言うよりも観光地的な気分で登れる北アルプスの峰々を私は楽観視しておりましたが、ここは私にとって完全アウェーの北アルプス、いろいろ勝手が違うでしょうし気候も違うはず、「あまりにも無防備な山行計画は後々命取りにならなければいいが・・・」といったことも少々懸念しておりました。
翌朝、明るくなってから改めて地図を見るとどうも登山口を間違ってしまっているようです。
ここは一ノ沢登山口であり、予定していた本沢の駐車場ではありませんでした。
私としたことが大変なミスをしてしまいました。
下調べもロクにせず、ミスは起こるべきしておこったと言えるでしょう。
これから登山口を変えると今度は駐車場がなさそうだし、出発も遅くなるとテン場も心配です。
そこで今回の山行に同行してくれる彼女に相談してみたところ「それでは常念~大天井に変更しましょう」ということで快諾してくださいました。
登山口には無愛想で怖い顔をしたおっさんがじっと座ったまま入山者に睨みを利かせており、まるで神社の入り口にある狛犬のようです。
おっさんはちゃんと登山届を提出しているのか一人一人を監視しているもようです。
入山者の中には登山届の書き方が悪かったのか、怒られているような人も見受けられます。
私は緊張しながら震える手で登山届を書き込むと、あまりにも字が汚くなってしまい、解読が大変に困難な登山届となってしまいました。
「大丈夫かなー、なんか怒られそう」と思いながらそっと提出すると、おっさんはニッと笑うだけで、すんなり通してくれました。
書いてある内容は分からなかったのではないかと思われますが、心が通じ合ったのかもしれません。
まさに私とおっさんは神社入り口に鎮座するあの狛犬のように阿吽の呼吸で意思疎通が図られ、私たちは無事に一番の難所であるこの関所の通過を無事に果たすことが出来ました。
今回の私の荷物は85リットルのザックに二人分の寝袋やテントを詰め込み、これまた大荷物での山行となりました。
ただでさえ彼女は健脚なのに、置いて行かれないよう一生懸命に歩かなければなりません。
しかしいざ登ってみると普段飯豊あたりに登っている私にとって常念岳の登りは赤子の手をひねるより簡単でした。
それにしても飯豊や朝日がいかに厳しい山なのか、他の山に登ってみて気が付きます。
もちろん疲れないことはありませんでしたが、意外にもそれほど苦労することなくすんなり常念小屋へと辿り着き、するとここからは景色が一変別世界、正面に北アルプスを象徴する槍ヶ岳や穂高岳の山々が見えるようになります。
飯豊などの東北の山々とは違った景色、これはこれで綺麗です。
澄みわたった青空に映える北アルプスの盟主を眺め、私は自然と万歳をしておりました。
心配していたテン場はまだがら空き状態で、余裕で一等席にテントを張ることが出来ました。
テントを張り終え、少し早い昼食を済ませると真上に聳える常念岳は翌日のお楽しみ、私たちはまず大天井岳へと向かいました。
紅葉が始まった気持ちの良い稜線歩き、澄んだ空気は清々しく、どこまでも遠くを見渡すことができます。
そんな中、大天井岳の山頂からブロッケン現象までも見ることが出来ました。
大天井岳は常念山脈の最高峰であり、最北端に聳えているとされています。
山名は「おてんしょう」と読むのですが、おかしな山名ですね。
これは二つ俣谷をつめた御天上、御天所ということで「おてんしょう」と読ませるとされていますが、松本を見下ろす松本城の御天守閣に例えられ「おてんしゅ」が「おてんしょう」になったという説もあるそうです。しかし地元では「だいてんじょう」、「おおてんじょう」と呼ぶ人少なくないということです。
景色をゆっくり眺めながら再びテン場へと戻り、そして夜は軽く宴会をし、松本の夜景を眺めて眠りにつきました。
翌日も素晴らしい快晴に心が躍ります、これから楽しみにとっておいた常念岳へと向かいます。
テントから飛び出すと半分以上のテントはすでになくなっていて、皆さん次なる目的地に向かって歩き始めているようでした。
私たちはこれから常念岳へと登り、あとは下山するだけでしたので余裕の一日です。
テン場からの急ながれ場の登りは飯豊の御前坂を思わせます、長さは御前坂の3倍もあるのではないでしょうか、この急坂は今回の山行で一番の核心だったように思います。
しかし軽荷のためかそれほど労せず長い長い急坂を登り切り、常念岳山頂へと至ることが出来ました。
常念岳は山麓の安曇野に最も近くに聳えており、安曇野を象徴する山と言われております。
山はその土地に暮らす人々にとって神様であり、山麓の人たちと歴史を刻んできたものであります。
安曇野の人たちにいつも仰ぎ見られてきた常念岳は古くから山麓の人たちと共に信仰や登山といった歴史を長い年月をかけて作り上げてきたのではないかと思われます。
北アルプスの山々や山麓には多くの伝説や秘話が残されていると言いますが、特に安曇野の象徴とされるこの常念岳に纏わる伝説は多いのではないかと思われます。
これら伝説についていろいろと調べてみると、常念岳は古い文献には乗鞍岳と書かれていたそうですが、坂上田村麿が八面大王を征伐したとき重臣の常念坊がこの山に逃げ込んだことから常念岳と呼ばれるようになったということです。
山麓の堀金村にこの常念坊が年の暮れになると酒を買いに下りてきて酒屋で五号徳利を出し、2升あるいは5升入れてくれというので、酒屋の主人が無理だと答えるのですが、不思議なことに酒は言われた通りに入ってしまうといったような伝説が残っているそうです。
常念岳には常念坊の雪形ができ、山麓の人たちは農業や行事の時期の目安にしていたそうです。
日本各地の山々の歴史等を調べていると特に東北の山々では坂上田村麿の名前が度々現れますが、この常念岳の伝説にも坂上田村麿が一役買っているようですね。
常念岳山頂はあまり広くはありませんが多くの人で賑わっておりました。
私たちはあまりの良い天気に下山するのがもったいなくなり、ついつい長居をしております。
そろそろ下山しようと思っていると、山スカを履いた娘さんが岩場に足を滑らせたのか転んでいて、立ち上がりながら「もうスカート履いて山に来るのやめよう」と言っていたのが印象的でした。
確かにどう考えても山にスカートはおかしいと思います、私は履いたことがありませんからよく分かりませんが・・・。
彼女の言葉を聞いて「やっぱスカートは歩きにくいんだな」と思いました。
山スカや山ガールなんていう言葉はいずれ死語となってくるのでしょうね。
やはり山を歩くにはそれなりに適したスタイルがあろうかと思います。
若者の多い北アルプスですが、今回訪れてみて確かに派手な服装やファッション重視の登山者は激減しているように感じました。
そして素晴らしいこの景色を惜しみながらゆっくり下山を開始し、無事に登山口まで戻ることができました。
ここで狛犬のおっさんを探しましたが、狛犬は移動してしまったのか残念ながらその姿はありませんでした。
私のシルバーウィークはこれで幕を閉じることになりました。
シルバーウィークの静かでない山旅はざっとこんな感じで過ごしましたが、それなりに有意義な山行でありました。
火打山、常念岳から帰ると中二日で今度は門内小屋の管理人です。
二回分の山行の片付けと山小屋管理人の山行準備が待っていました。
さてさて、ここからは本題の門内小屋管理人の報告となるわけですが、前述しましたように今年は9月に二度、管理人業務に就きました。
まずは12日~13日の管理人業務についてですが、この時は非常に運悪く茨城県や栃木県などで大水害が発生した直後の管理業務でありました。
新潟県の被害はほとんどなかったようですが、自粛ムードが高まる中で飯豊に向かうことになりました。
私自身、山に登るのが実に一か月半ぶりとなります、歩きなれた梶川尾根ですがこの時だけは辛く長い登りとなりました。
梶川峰に着く頃には足が攣り始め、この一月半の間に筋力が衰えていることがよく分かりました。
稜線に着くと案の定、山に人の姿は見えません。
12日は久しぶりに晴れ、登山日和でありましたがこれほどの人の姿が見えない飯豊も初めてです。
元々、人が少ない山なのですが、少ないというより誰もいません。
お蔭でこの時はまったく成果の無い管理人業務でした。
それでも一応、門内小屋のテン場には新潟の人が一人、小屋に3人の登山者が宿泊されました。
13日は天候が崩れるということで早々に下山し、一回目の管理業務は終了です。
その後シルバーウィークがやってきたわけですが、この期間中は晴天に恵まれたということもあって飯豊は史上稀にみるほど大盛況で、これほどの入山者は初めてだったと各小屋の管理人さんは話しておられました。
そして26日~27日、シルバーウィーク明けの山は少し寂しくなると予想はしておりましたが、紅葉が最盛期ということもあって少々の人出は見込んでおりました。
しかし天気は生憎の雨模様、さて果たしてどうなることやら・・・。
今回は管理人ということで荷物が少なく余裕で登れると思っていたところ、シルバーウィーク中にビールがすべて売り切れたということで一箱担いで行ってほしいと管理人事務局の亀山さんに頼まれ、最近の山行の中では一番の重量となってしまいました。
今回のルートは梶川尾根を使わず足の松尾根から行きました。
距離はその分長くなってしまいます、悪天の中「嫌だなあ」と思いながら足の松尾根の急坂を登りました。
頼母木小屋まで着くと重荷のため随分と疲労しているのがわかります。
ここからは頼母木山、地神山、扇ノ地神と登り勾配の稜線を歩かなければなりません。
冷たい風とガスに晒されながらも休み休みやっと門内小屋に到着しました。
「この天気では誰も来ないだろう、静かな一日になりそうだ」そう思いながらもいつ登山客が来てもいいように重要な準備だけはしておりました。
しかし誰も来ない、紅葉は最盛期だし明日は天気が回復するという。
「少しくらい人が来てもいいのになあ」なんて思いながら時間はどんどん過ぎていきました。
夕方5時を過ぎたころ赤い雨具が管理棟の外に見えます。
誰も来ないと諦めていたのですが、単独のおじさんがやってきました。
これで何とか宿泊者ゼロといった事態は免れました。
「天気が良ければ若い女性で賑わっただろうになー」いつ客が来てもいいような重要な準備、それは頭に手ぬぐいを被ることでした。
せっかく身なりをきちんとして待っていたのに残念です。
今年の管理人業務は何だか仕事をした気がしません。
ビールを担いできたことがせめてもの救いの様な気がします。
翌日、目が覚めると青空が広がっています。
尾根に広がる赤い絨毯と清々しい青空。
雨上がりの澄んだ青空に映える赤く染まった秋の峰々は華やかであります。
あと10日もすると冬枯れとなる木々の葉は今年最後と言わんばかりに精一杯華やいでいるように感じます。
私は散歩気分で北俣へと向かいました、ギルダ原という名の日本庭園を抜けると北俣岳の登りとなります。
この坂を登っていると冬に訪れた時のことを思い出します。
吹きすさぶ強風に煽られ、氷に覆われた大地に行く手を阻まれ、冬の猛威に晒されながら大変に苦労して登ったあの坂道も、今日は赤や黄色の衣を纏って優しく出迎えてくれました。
再び門内小屋へ戻った私はこれから下山を始めることとなりますが、実はこのあと一人の女性が私を訪ねて日帰りで来ることになっております。
一人寂しい管理人でありましたが、訪ねてきてくれる方がいるということで今日はそれを張り合いにしておりました。
ところが残念なことに門内小屋を出る頃には再び辺りはガスの中になってしまい、素晴らしい紅葉を見ることができません。
大石山付近まで来ると、前方から彼女が歩いてきます、私は小躍りしながら彼女に近づいていきました、彼女とは約一年ぶりの再会です。
生憎のガスの中での山行となりましたが、一緒にエブリ差岳へと向かいます。
しかしガスはどんどん濃くなり小雨も時折チラつくようになったということもあって、鉾立峰で引き返すこととなりました。
久しぶりに再会した彼女とゆっくり話をしながら足の松登山口まで下山し、無事に今年の管理人山行を終えた私は、頭から静かに被っていた手ぬぐいを解きました。
今回は天気や運にも恵まれず人のいない飯豊での管理人業務となってしまいました。
私はいつも一人で山に登り、自然の中の静寂を楽しんでおります。
必死で一日歩き続け、今日はここで幕営と決め、斜光に映える大いなる峰々を眺めている時の至福のひと時は何とも言い難く、辺りはシーンと静まりかえり自然が発する気配のみしか感じえないあの嬉しさは、とても言葉で言い表せるものではありません。
しかし管理人といった目的で山に入ることはいつもの自分の山行とは趣向が違っており、一人静かに過ごす管理人業務はなかなか寂しいものでありました。
だからといっていつかのようにやたら多くの宿泊者が訪れてその対応に四苦八苦したといったこともあり、それに比べればまったくマシですが・・・。
この管理人業務が終わるといよいよ山は冬支度へと入って行きます。
私もまた正月登山に向けて準備をしなければなりません。
今年は以前にも書いたように飯豊から少し離れ、朝日に入る予定ですが果たしてどうなることやら・・・。
今回はいろいろあって日程的に正月に山に入れるかどうか分かりません、いずれにしても装備やら体調やらを整えて、準備は万全にしておこうと思っております。
飯豊よりアプローチが悪く山深い冬の朝日は怖くもあり楽しみでもあります。
冬の朝日はデーターがまったくなく、しかも飯豊以上に人が入っていません。
もちろんネットに掲載されているようなものは皆無であり、事前に調べられることは非常に少なく、結局自分自身で確かめて何度も自分の足で歩いて調べなければならないところです。
でもこれは私自身が一番望んでいることであり、すべて一から自分自身で切り開いていって成功した登山ほど楽しいものはありません。
何年かかるか分かりません、もしかするとずっと無理かもしれませんがまだ体力と気力があるうちは挑戦し続けたいと考えているところであります。