正月の飯豊

 

平成25年12月30日~平成26年1月1日

 

 

 

はじめに

 

正月の飯豊から下山したあとに一足遅れで新潟の登山用品店など新春初売りへと行きます。

 

店に入り商品を見ていると知らない人から「正月の飯豊どうでしたか?」と聞かれ「下越山岳会も正月の飯豊に入ったと聞きましたよ、もしかして会いましたか?」なんてことも聞かれたりしました。

 

私が単独で行った正月の飯豊ですが、世間一般的には下越山岳会が行ったと思われているようです。

 

確かにここ3年間は私が所属している下越山岳会としてではなく私の個人山行となり単独で正月の飯豊に入山をしておりました。しかし私が正月の飯豊に挑戦できるのは正月の飯豊の登り方を下越山岳会の諸先輩たちに教えてもらったから他ならないわけであります。

 

それに実際のところ毎年入山にあたり下越山岳会の皆様方にサポートなど多くの支援をしていただいているところでもあります。

 

だから私の正月山行は個人山行ではなく会山行に近いものなのだと考えており、世間の皆様方に下越山岳会が正月の飯豊に行ったと思われても異論はまったくないどころか逆にそれは私の望むところでもあります。

 

しかしその分責任は大きくなり、それは登頂と言った責任ではなく安全第一の登山をしなければならない、とにかく五体満足で下山をすることが責任を果たすことであると考えております。

 

 

 

大抵の人は正月に飯豊に行ったなどと言うと「冬山へ行く人の気が知れない」と言われます。

 

特に正月の飯豊ともなれば登山が趣味の人でさえ「なぜそんなところに行くのだ?」と不思議がる人が大半のようです。中には「正気の沙汰か?」と精神異常を疑うような人まで出てくる始末です。

 

確かに正月の飯豊登山は非常に難しいばかりかとんでもなくリスクの大きな山行であって、私自身これが8度目の挑戦となりましたが目的地である北俣岳の登頂に成功したのは僅かに1度だけ、確率は5割と言う方もおられるようですが、おそらくそれは頼母木山あるいは稜線に登頂できたことを言うのだと思われます。

 

頼母木山なら確かに確率は5割ですが、私にとって頼母木山で帰るということは敗退を意味しており、その山行は失敗だったということになります。

 

とにかくそれほど成功率の低い山行に必死の思いで挑戦するということは、魅せられた者だけにしか解らないことであり、それが故に扉を叩き迷路の中に入り込んでしまうといった心境は普通の人には理解できないものなのかもしれません、しかし山の魅力の深みにはまればはまるほど厳しい山行に挑戦するようになることは自然な流れであり必然であるものとも思われます。

 

 

 

山は厳しくなればなるほど自然の驚異が剥き出しの状態となり、神秘性を増して格段に美しくなる、そんな人間の生活圏では到底見ることのできない厳冬期の飯豊の光景は今まで見てきたどんな景色をも圧倒的に凌ぐほどの美しいものであります。

 

可能性は僅かですが、その僅かな望みに期待して諦めることなく何度も挑戦し続け、困難に打ち勝ってからこそようやく目にすることができる景色は大きな価値があり、特別なものであろうかと思います。

 

 

 

また先ほど登頂率のことを書きましたが、正月の飯豊は登頂してもしなくても得るものは非常に大きいものがあります。

 

難しい山行になればなるほど研究や勉強を重ねることでしょうし、努力をするようになります。

 

それになによりもあの厳しい山行の苦しみは計り知れないほどであり、その苦しみを耐え抜くことにより一皮も二皮剥けて技術と知識、それから大きな経験値を得ることができます。

 

それが他の山行に大きく役立つということは言うまでもありません。

 

 

 

山行の記録

 

階段を登ろうとしたら足先をぶつけてしまい目から火が出る。

 

10月の初旬、今年は早々に足に錘を着けての生活が始まった。

 

片足に2kgずつ、段差があるところなどはよく足先をぶつけたりするし、よくつまずいたりもして慣れるまでしばらくは日常生活に支障が出てしまう。

 

正月の飯豊に向けて足腰を強化するためのトレーニング的な意味合いで始めたことで、恒常的に実施している訳ではないのですが、今のところ明らかに少しではありますが効果はあるものと思います。

 

そしてその日を境に苦しいトレーニングの日々が始まり、それと同時にあの深いラッセルを少しでも緩和したいと思い体重を減らすことも考え減量生活にも耐えなければなりません。

 

11月頃からは毎晩のように悪夢にうなされるようになる、雪庇を踏み抜く夢やクレバスに落ちる夢、猛吹雪に晒され稜線上で路頭に迷う夢など。

 

あるいは大きなエビの尻尾が張り出した北俣岳の山頂で万歳をしているような登頂成功の夢なども見る時がある。

 

いずれにしても精神状態が不安定になっているようで少しノイローゼ状態に陥ってしまうようです。

 

12月の忘年会はほとんどキャンセルし、トレーニングをしながら食生活にも十分注意して、とにかく体調管理を徹底して正月の飯豊に備えました。

 

今年は年齢からくる体力低下を振り切るように体をいじめ抜き、ここ最近の中でも非常に良いコンディションで正月の飯豊に臨むことができたと思います。

 

登山計画や装備の準備は秋頃から周到に始めていたので万端です、去年の反省点もカバーし年々完成度は高まっております。

 

あとは天気を待つだけでした。

 

 

 

12月30日

 

先日から日本列島を覆っていた寒気を回避して、回復の兆しを見せるであろう30日を出発日としました。

 

いつものように奥川入荘へサポートの皆さんと到着、今年は例年より雪は少なめです。

 

それでも最初の急な登りは腰までのラッセルとなりました、その急坂をまたいつものように下越山岳会のサポートに助けられながら登ります。

 

 

 

この時期の飯豊の特徴として、下部は急な登りと深いラッセルに阻まれ、中間部でようやくラッセルがいくらか浅くなる頃に今度は強風が吹き始め、湿った雪と冷たい強風で体はあっという間に凍りつくことになります。

 

高度が上がるほど気温はどんどん下がり風は強くなる一方で、頂稜部ともなると人など簡単に飛ばされてしまうほどの風が吹き荒れています。

 

晴天はほとんど望まれず、おそらく月に一度かせいぜい二度くらい晴れ間がある程度だと思います。

 

 

 

今日もそんな飯豊の気象条件を絵に描いたような一日となりましたが、そんな中でも下越山岳会のサポートの皆様は枯松峰の少し手前まで私を送り届けてくれ、お蔭で何とか初日のうちにテン場である大ドミに到着することができました。

 

大ドミの積雪は今までの中で一番深く、荷上げ品を掘り出すのにとても苦労しました。

 

荷上げ品は2m50cmほど埋もれており、木の上部に赤い標識を付けておいたのでなんとか分かりましたが、その標識でさえ埋もれる寸前でした。

 

 

 

いつもの大ドミのテン場には新潟山岳会の姿が見えます、今まで新潟山岳会は枯松峰にテントを張っていたのですが、今回は大ドミにしたようです。

 

彼らとは山で会うことがほとんどで、普段連絡を取ったりすることはありません。

 

しかし目指すところはひとつであり間違いなく同志です。

 

そうそう会うことはありませんが彼らとは仲間だと思っております。

 

彼らはどう思っているかは分かりませんが、いずれにしてもこの極限の地で出会った彼らは私をテントに暖かく招き入れてくれ大変なおもてなししてくれました。

 

「いつかお礼ができる機会を作りたい」そのように思っております。

 

 

 

私自身、山岳会に入会してはいるものの少しの間でも人間社会から離れたいと思って登山をしています。だから山岳会の方たちが集まるようなところにはほとんど出向くことはありませんし、山仲間もとても少ないです。

 

「面倒くさいから山仲間は少しでいい」、「山仲間なんかいなくても山に登れればそれでいいのだ」なんて強がっている反面、下越山岳会の方たちの暖かいサポートを受けいつも正月の飯豊に挑戦することができ、そして極限の地で出会った面々の志に触れ、人に支えられて山に登っているということを今回は特に実感しました。

 

 

 

酒に酔いながら日暮前に自分のテントに戻り、明日もしチャンスがあればアタックするつもりで準備を始めなければなりません。

 

しかし酔っているので面倒になってしまいこのまま寝袋に入って寝てしまいたいところだったが、なんとか入りかけた寝袋から這い出して万が一に備えて明日の支度を始めました。

 

苦労してここまで来たから後悔の無いようにしなければなりません。

 

 

 

外は雪が降っているものの強いものではなく、テントを揺さぶるようなほどの風も時折吹く程度で、厳冬期の飯豊としては比較的静かな夜でした。

 

夜中に醒めかけた酔いでジンジンと痛む頭痛に耐えながら一度だけテント周りの除雪に出ました。

 

 

 

12月31日

 

朝、テントから顔を出す。

 

視界は30mから50m、強い横殴りの雪がテントを叩きつけている。

 

「なんだ、やっぱり昨日の夜はさっさと寝てしまえばよかった」再び寝袋に潜りふて寝をする。

 

明るくなってからテントの除雪をしようと外に出ると新潟山岳会が私のテントのところまでやってきて差し入れと励ましの言葉を残して下山して行きました。

 

 

 

相変わらず強い雪が降り続いているが気温は高いようで雪が重い。

 

天候に回復の兆しは見られず今日は停滞することにしました。

 

元々、チャンスは1月1日になるだろうと予測しており、今日はゆっくり休んで昨日のラッセルの疲れを取ることに専念することにします。

 

 

 

昼を過ぎた頃から携帯電話には多くの人たちからメールが届くようになる、すべて天気を知らせてくれるメールです。

 

この大ドミはラジオですら入らず、天気の情報を直接得ることがまったくできません。

 

ひとつの情報からではなく多くの情報を集約して今後の天気を勘案しますが無情にもどれもが風雲急を告げる内容のものばかり、どう考えても悪い方向に向かっている状況となりました。

 

 

 

余談ですが、それぞれ5人の方々から気象状況をいただいたのですが、これにはとてもありがたく思いますし、大変に助かります。

 

しかしとても面白いと思ったのは山に登る人たちからの情報は非常に詳細な内容のもので低気圧や等圧線のことなどの情報が寄せられます、今後の風や気温の状態や変化を予測することができるのでこれからの行動に大いに参考になります。

 

もちろん普段から私自身もそれらの情報を駆使して登山計画を立てるようにしておりますが、それにしても普通に「明日は曇り時々雪です」なんていう天気情報を送って下さる方はいないものですね。

 

天候と今後の行動を判断するには低気圧や等圧線などの情報はもちろん必須でありますが、普通の天気予報もほしいと思っていたので5人のうち1人だけ山に登らない人に天気情報の連絡をお願いしていたところでして、案の定そのお方からは1日曇り時々雪か雨、2日雪、3日曇り小雪といった情報が送られてきました。

 

佐久間さんから送られてきた天気図を見て私が判断した今後の予想と概ね合うようで、入山前の予報では1月1日が最大のチャンスと見ていたのに、それが変わってしまったようです。

 

「1月3日になると天候は回復するようだがそれまで耐えられるだろうか?」

 

1日と2日は強風が吹いて大荒れの天気になりそうです。

 

迷いに迷いましたが、撤退するかどうかはとにかく1日の朝になってから決めようと思っておりました。

 

しかし夕方頃から爆裂音とともにテントが大きく揺れはじめ、風が強まってきたようです。

 

やがて風の音とともにテントを叩く雪の音も激しくなってきました。

 

僅かな時間でテントは雪に埋もれるようになり、慌ただしく除雪のため外へ出ます。

 

風は強くなる一方でテントが壊れるのではと心配になるほどでした。

 

それでも苦労してようやく飯豊の懐までやってきたのに、そう簡単に諦めるわけにはいきません、明日の朝に風は少しでも弱まってくれることを祈りながら必死で風雪に耐えるテントを気にしながら除雪と格闘し続けました。

 

何度も繰り返す除雪作業によって去年の反省からテントシューズにカバーを着けたので足元は濡れることはありませんでしたが来ているダウンジャケットは雪と汗でぐちゃぐちゃになってしまいました。

 

 

 

やがて空が明るくなり始め、風はおさまるどころかいちだんと強さを増すばかりのようです。

 

厳冬期の飯豊に訪れるチャンスなどそうそうないので天気の回復を待てるものなら待ちたい、しかしこのまま停滞していたらどうなるか分かりません。

 

その時、私の頭の中でよぎったのは安全第一という言葉でした。

 

再び厳冬期の北俣に登頂して皆に褒められる可能性を探るのか、無理がたたり遭難騒ぎを起こして皆に迷惑をかけるのか。

 

もちろん後者を選ぶべきと判断し、残念でありますが下山をすることに決定し、今回の私の挑戦はこれで敢え無く幕を閉じることとなりました。

 

 

 

早くから始めた準備と入念な体調管理でワンランク向上した装備に加え例年になく充実した体力と気力で臨めた正月の飯豊でしたが、思うような行動ができずに敢え無く完敗の非常に悔しい山行となってしまいました。

 

あまりにも無情すぎる飯豊の気象、厳冬期の飯豊の難しさを改めて思い知らされました。

 

残念ながら今回も飯豊は微笑んでくれませんでした、これでまた1年待たなければなりません、これで今回もまた私の夢はあっけなく潰えてしまうこととなったのです。

 

確かに気象条件に恵まれなかったということもあるかもしれませんが、それ以上に私の努力不足によるところは大いにあったと思います。

 

「俺は単独で正月の飯豊に挑戦しているんだ」とうそぶきながらも毎回のようにサポートに支援され登っていて、いつしか心のどこかで最初からサポートをあてにしていた面があったのではないかと思います。

 

それから以前のように日帰りでもわざと重い荷物を担いだりすることが少なくなり、普段から体に負荷をかける機会が減って、どんどん楽をするようになってしまっていたように思います。

 

それに3年前にたまたま天気に恵まれ北俣岳に登頂し、皆さんにチヤホヤされて有頂天になっており、それがおごりとなって「正月の北俣に一人で登った」などと豪語し続け、厳冬期の飯豊をなめてしまっていたのだと思います。

 

どんなに準備や体調管理はいつも以上に万全のつもりでしたが精神面が負けていたと思います。

 

 

 

とにかく一からやり直しです。

 

謙虚な姿勢で山と向き合って、そしてもっともっと努力して強くならなければ厳冬期の飯豊に打ち勝つどころか挑戦する資格ですらないものと思います。

 

そして諦めないで努力を続け、一生懸命に頑張っていれば勝機は必ずあるものです、天気が微笑み厳冬期の飯豊に受け入れてもらえる日が必ずやって来ます。

 

 

 

追記1  反省点

 

精神面で大いに反省しなければならないことは明らかになりましたが、装備の点でふたつほど気が付いたことがありました。

 

反省点その1

 

除雪中に雨具から雪が吹き込みダウンジャケットの襟部分がぐちょぐちょになってしまう、1度や2度の除雪なら大丈夫だと思うのだが回数を重ねるとどうしてもそうなってしまう、ことに気温が高い日は尚更である。

 

ダウンは一度濡れると乾くことはないので、それが寝袋にまで伝わって保温性が悪くなるといったことがおきました。

 

除雪時はダウンを脱ぐか替えを持っていくとか方法はあると思いますが、最善の解決法を検討したいところであります。

 

反省点2

 

今回の強風ではテントが大きく煽られ壊れるかと心配になるほどでした、事実以前にもポールが折られたことがありましたが、今回はポールだけならまだしも生地が破けるのではないかと思うほどでした。

 

私のテントはアライエアライズというものですが、これはもちろん4シーズンのテントであり強度もそれなりにあります、その割に比較的軽くて非常にバランスのとれた素晴らしいテントだと思っております。

 

しかし他の山なら大丈夫かと思われますが、厳冬期の飯豊に使うには少々無理があるのかもしれません、少しくらい重さが増しても仕方がない、テントを強度重視の別な物に変えなければならないと感じました。

 

 

 

追記2  私が一人で正月の飯豊に登る理由

 

正月の飯豊から下山して、10日後に再び飯豊に訪れる機会に恵まれました。

 

1月12日~13日にかけて私の所属する下越山岳会が頼母木山までの予定で飯豊に臨むという計画の下、私も参加させていただいたのです。

 

これは正月の飯豊で敢え無く敗退したから再び挑戦したいというようなことではなく、久しぶりに山岳会の皆さんと厳冬期の飯豊に訪れるということが楽しみで参加させてもらいました。

 

下越山岳会といえば飯豊連峰がホームグラウンドであり、ハイカラな都会の山が似合わない、良い意味で洗練されてなく、素朴で自然が多く残り人より猿の方が多いような山々が良く似あう山岳会です

 

そんな山岳会の皆さんが再び厳冬期の飯豊を訪れるという計画を聞いた時に私はとても嬉しくなりました。

 

山行の結果としてはちょうど大寒波が日本列島襲来中の真っただ中で決行され、皆さん大変に御苦労されておられたようです。

 

結末は大ドミの私のテン場付近までが精一杯で、もしかしたら皆さんは満足のいかない山行だったかもしれませんが私は嬉しくもあり幸せでもある山行でした。

 

山岳会の大先輩である髙橋さん曰く「田中に着いていけるような会員は残念ながらうちの山岳会にはいない」とのこと。

 

確かに山岳会の比較的若い人は理屈ばかり喋るだけで、もう少し発奮してほしいと思うところでありますが、今回参加された年配の方々の素晴らしい飯豊魂には感動させられました。

 

そんな年配の方々なら私に着いていけないなんてことはない、逆に私が着いていきたいくらいに思えるほど活力のある山歩きをされておりました。

 

 

 

私は何も好きこのんで一人で正月の飯豊を目指しているわけではありません、ただ同志がいないだけなのであります。

 

一緒に正月の飯豊に挑戦するような若者が一人でも現れることを切に願っているところであります。

 

 

 

現在、山岳会の屋台骨となっている方々は皆さん確かに若々しいのですが、お年を召してしまっていることも事実です、でも今回の山行に同行させていただいて改めて思いましたが、厳冬期の飯豊に対して皆さんの気持ちは熱いものがあるようでした。

 

しかし気持ちだけでは山は登れない、山岳会は年々高齢化していくばかり、このままではいつか正月の飯豊山行がついえてしまいます。

 

私程度のようなものですが、会の皆さんの熱い思いがついえるようなことはしたくないと考え、だから今は一人でもいいから、仮に個人山行となってしまってもどうでもいいから以前から続いてきた伝統行事である正月の飯豊山行を一人でも登れるような力をつけたい、そして私だけでも続けていきたい、そしていつか同志が現れるのを待ち続けようと心に決めて以来、一人で登るようになりました。

 

そして、それからは春であろうが夏でも秋でも山に登るときは正月の飯豊を意識してわざと重荷を担いで早く歩くように、遠くまで行くようにトレーニングを兼ねて常に正月の飯豊を意識して歩くようにしてきました。

 

人と歩調を合わせていたのではトレーニングになりません、だからいつの山行でも一人で行くようになりました。

 

私自身、あと何年正月の飯豊に挑戦できるかわかりませんが、できるだけ長く頑張り続け、そして一緒に登れる若い仲間が現れるのを待ちたいと思っているところです。

 

 

 

追記3  今後について

 

私自身、ホームページで日記を書くようになってから知らない方々にも声を掛けられるようになって、これがまた「凄い山行に行っているね」とか言われたり、「面白い文章だね」なんて褒められたり、あるいは「山のことで教えてほしい」なんて言われることもあります。

 

これはとても嬉しいことでありますが、自分自身それが元で天狗になってしまうのではないか、あるいはもう天狗になっているかもしれない。

 

それは自分自身とても嫌なことでありまして、今回の正月の飯豊ですっかり打ちのめされた私は天狗になっている場合ではないと気が付きました。

 

ただただ自分の力の無さ、技術の無さ、判断力も持ち合わせて無く、何もかも一から出直さなくてはならないことが判明したわけであります。

 

そんなダメな私が偉そうにホームページなんか作ってしまい本当に申し訳なく思うわけでありまして・・・。

 

また、これ以外にも多くのいろいろな理由がありますが、つまりのところ少し自粛しようなどと考えております。

 

元々、静かな山へ登った記録を書くつもりで始めたホームページでしたが、人気の山へ行った山行記録まで書き続けている次第でもあります。

 

 

 

しかしせっかく始めたホームページですし閉鎖するようなことはしません、今までのように多くは書きませんが、年に数回程度になると思いますが時々は面白い山や珍しい山、そして静かな山などに登った時はまた山行日記を書いて掲載しようと考えております。

 

そんなわけで、これからすっかり本数は減ることになると思いますが、時々は更新しようと思いますので、良かったらその時はまた読んでやっていただければ幸いに思います。