櫛形山

 

2月11日と12日

 

 

 

登山歴の浅い知り合いから「スノーシューを買ったので雪上歩きのハイキングに連れて行ってほしい」と頼みごとをされておりました。

 

「そのうち連れて行くよ」と言いつつも、休日はいつも荒れ気味の天気に見舞われ、約束を果たすことができずにおりました。

 

私自身もこのままでは運動不足になってしまうしどうにか山へ行けないものか、晴れる休日をずっと待ち続けておりましたが1月が過ぎ2月に入っても晴天と休日は重なることが無く、悶々とした日々を送っておりました。

 

おまけに、それでは新潟県がだめなら2月の休日に関東方面の山へ遠征に行こうと思って準備をしていたら、関東地方は45年振りの大雪に見舞われてしまう始末で、どうにもなりません。

 

 

 

それから天気以外にもうひとつとても気になることがあって、それはスノーシューハイキングなんて言えば見晴らしの良い高原状になっている雪原を悠々歩く姿を思い浮かべてしまいます。

 

しかし残念ながら私の住む新潟県の下越地区では上越や中越と違ってリゾート地などと呼ばれるような高原はどうしても思い浮かばず、その代わりと言ってはなんですが原始的な藪山ならいくらでもごろごろとあるようなそんなところです。

 

スノーシューハイキングと言えば聞こえは良いが、この付近の山となると登山道が雪で埋まり藪と化した急な尾根の登りをする藪歩きしか私の頭の中には思い浮かんできません、公園など歩いても仕方ないし・・・。

 

 

 

そうこうするうちに「2月11日の午後は久しぶりに晴れそうだ」ということで私は約束を果たすことにしました。

 

ところが今度は行先が決まらない、どうしよう。

 

とにかく適当にどこかの山へ向かって車を走らせ、胎内市の山裾の奥まったところにある隠れた美味しいラーメン屋に入り、ラーメンを食べながらあれこれ考えてみた。

 

 

 

ここ胎内市には日本一小さな縦走路などの謳い文句で宣伝されている櫛形山脈という里山があり、豪雪地帯の中にあって比較的手頃に登れる山々が連なっております。

 

胎内市を走る国道7号線側に点在する集落からは多くの登山道が整備されており盛期には多くの登山者で賑わうところであります。

 

冬期間でも状況によりますが雪は比較的浅く、天気の良い日などは訪れる人も結構いるようです。

 

しかしまさかそんなところを素直に登る気などさらさらなく、ましてや雪が降り積もれば登山道はすべてわからなくなり、逆にすべてがフィールドとなる新潟県の山々。

 

いろいろと考えているうちに櫛形山脈の裏側にあたる国道290号線側は山村部に棚田が広がる素朴な田園地帯となっており、広々とした雪原になっているということを思い出しました。

 

かつては多くの山城が築かれ栄え発展していたところ、現在はそれらが中条の市街となって賑わいを見せている7号線側とは対照的に国道290号線側は風情のある山村の中にところどころ素朴な原風景が見られようなところで、その原風景の中をそれぞれの集落に沿って林道が奥深くまで延びており、櫛形山脈の裏側は登山道こそありませんが、その林道をつたって懐深くまで簡単に入り込むことができます。

 

「林道を利用してあわよくば山頂まで行けるかもしれない、そうなればスノーシューハイキングと偽って登山道の無い裏側から櫛形山に登ろう」、「一緒に行く人には適当なことを言って騙し騙し連れて行けばいいや」そんな下心が私の中に沸々と芽生えてきました。

 

私は顔にすぐ出るようで「何をニコニコしているのだ?」相方に問われたその時、おそらく私はラーメンを食べながら悪代官が悪企みをしているかのような笑みを浮かべていたに違いありません。

 

ラーメン屋を出てすぐに登山口に向かいましたが、歩き始めはすでに午後2時半をまわっています。

 

どこまで行けるか分かりませんでしたが、南俣集落から山裾まで延々と続く林道を脛付近まで潜りながらのラッセル、スノーシューハイキングを実施しました。

 

空はようやく青空になり、振り返ると棚田の奥には久しぶりに顔を出した飯豊を望むことができます。

 

いくつかの砂防ダムを越えると林道は終わり、そこからはおそらく踏み跡程度の夏道か獣道程度のものはあるのでしょうけれど、それらは雪に覆われすっかりわからなくなっております。

 

急遽、行先を決めたものだから地図は持っていません、しかし限りなく見える山並みを眺めてこれから辿る道を判断します。

 

林道終点からすぐ頭上に稜線があることが分かるので、選定はそれほど難しくありません、適当に目星を付けて尾根に取り付きました。

 

しかし急な取付きを越えたあたりで時計を見ると時刻は夕方4時半近くになっています。

 

山頂は明らかにすぐそこにあるのですが今日は一人ではなく、登山歴の浅い人を日没後にまで連れて歩くにはさすがに申し訳なく思い、それにスノーシューの練習は十分にできたことでしょうし、ここで引き返すことにしました。

 

 

 

そして翌日、新潟県は久しぶりの晴天となりましたが今日は仕事です。

 

まさか仕事をさぼって山に登るなんてそんな不謹慎なことはできません、そこで昼休みを利用して昨日と同じルートを登ってみようと考えました。

 

 

 

朝、会社に顔を出してちょっとだけ仕事をすると、急いで登山道具を準備し、再び南俣集落へと向かいました。

 

時刻は10時30分、ちょっとだけ昼休みには早いような気がしますが、まあ許容範囲ではないでしょうか。

 

昨日のトレースがあるので順調に尾根の取付き場所まで到着し、昨日とは少し違うところから尾根に取り付いてみた。

 

かなり急な登りが続きますが特に難しいところはなく、ただただ急な尾根を登り詰めるのみ、高度はぐんぐんと上がり、あっという間に稜線に出ることができました。

 

稜線には数名程度のものと思われるかんじきやスノーシューの跡があり、ここからほどなく山頂に立つことができました。

 

下りは急な一直線の尾根を滑りながら楽しく林道へと至りました。

 

 

 

車に辿り着いたのは午後1時過ぎ、平日のしかも昼休み中に無事に山をひとつ登ることが出来ましたが、一応会社には内緒です、おそらくこのままばれなくて済むでしょう。

 

ただ私の場合、体のバランスなのか歩き方に問題があるのかはよく分かりませんが、被っている帽子がゆっくりと時計回りに回っているようで、髪の毛も帽子と一緒に回るので時計回り方向にクセがついてしまうのです、これは特に下山時の激しい歩き方をしているようなときに顕著に現れます。

 

今回も下山後に帽子を脱ぐと髪の毛がとぐろを巻いており困りました、皆さんもこのような経験をされたことはありませんか?

 

そう言えばいつだったか新発田近郊の五頭山という山に登った時、アデランスかアートネイチャーと思われるかつららしき物が落ちているのを見つけたことがあります。

 

もしかするとかつらを被った人が歩いているうちに私と同様に帽子がまわり、かつらまでまき込んでしまってかつらが外れ、いつの間にか気が付かないうちにかつらを落としてしまったのではないでしょうか。

 

落とし主の方は急激に頭が寒くなり風邪でもひかなかったかと心配になりました。

 

それにしても私の場合はかつらを被っていないので助かります。

 

ただ何食わぬ顔をして会社に戻りましたが、髪の毛はとぐろを巻いていたので、なんだか事務員が私の頭を見て笑っていたように思いました。

 

やはりこの山に登るときは櫛を持参した方が良いようです。

 

 

 

そして昨日の相方に無事に登頂した連絡を入れると「是非、行きたい」と言うのですが、まだ登山歴の浅い人を里山とは言えバリエーションルートに連れて行くには気が引けるので「じゃあ国道7号線側から正規のルートで連れて行くよ」と言うと「そんなところから登るのは嫌だ、通常ルート以外のところを登ってからこそ意義があるのだ」と言ってきた。

 

そんなことで翌週末に連れて行ったところ、悪天だったにもかかわらずすっかり満足していたようで、私としては何だか悪の道?へ、いや変わり者とでも言えばいいのかな?いずれにしてもアブノーマルなところへ引きずりこんでしまうようで申し訳ないような気がする反面、ちょっと嬉しくもなりました。

 

 

 

コースタイム

 

南俣集落より林道歩き尾根取付場所まで(昨日のトレースあり)45分

 

尾根取付場所から山頂まで50分

 

山頂から尾根取付場所まで35分

 

尾根取付場所から南俣集落まで35分

 

 

 

最後に、櫛形山脈の中に鳥坂山と言うピークがあります。

 

先ほど櫛形山脈には多くの山城が築かれていたと先ほど書きましたが、鳥坂山にも鳥坂城という山城が築かれておりました、その鳥坂城には板額御前と言う名の女傑が住んでいたとされ、その板額御前の活躍は現在でも地元中条に語り継がれているので、そのことについて書いておきます。

 

 

 

建仁元年、越後の豪族、城小太郎資盛(じょうのこたろうすけもり)が鳥坂城を拠点にして鎌倉幕府に反乱を起こした。

 

幕府は近くの同じ櫛形山脈にある加治城の佐々木盛綱にその征伐を命じたが、鳥坂城の城内には弓の名手ががいてどうしても城を落とすことができなかった。

 

そこで幕府は、当時の弓の名人として名高い信濃国の藤沢四郎清親に城内にいる弓の達人を生け捕りにして鎌倉につれてくるように命じた。

 

清親は大軍を送り出して城を囲み、弓の達人を生け捕りにしようと攻め入った。

 

その時、櫓の上に立った若武者は、神業のような凄い弓さばきで矢を射ってきた。

 

その矢は強弓のうえ百発百中でとても軍隊は近づくことができなかった。

 

困った清親はひそかに裏山へまわり、後方の高い峰から若武者のももを狙って矢を放った。

 

このためさすがの若武者もひるんで倒れ、ようやく生け捕りにされた。

 

この若武者は板額という二十歳を過ぎたばかりの美しい娘だった。

 

その後、板額は鎌倉へ送られたところ、幕府軍をさんざん苦しめた弓の達人が若い美しい娘だと聞いて鎌倉の町は大騒ぎとなった。

 

将軍、源の頼家の前に引き出された板額は「反乱を起こしたのは越後にいる守護や地頭が不作続きににもかかわらず高い年貢を取りたて農民を苦しめていた」と地方政治の乱れを堂々と申し立てたそうです。

 

将軍はこの立派な態度に感心したが、反乱をおこした罪は許さなかった。しかし家臣の阿利義遠が「ぜひ妻にして強い子をもうけたい」という希望で罪を許し、身柄を義遠に預けた。

 

板額はその後義遠の妻となり、義遠の領地である甲斐の国で領民に慕われながら一生を送ったということです。