白神岳地図

白神岳写真

白神岳写真


裏岩手地図

裏岩手写真

裏岩手写真

裏岩手写真


みちのく一人旅

 

922日 白神岳

 

923日 裏岩手縦走(畚岳~諸桧岳~險阻森~大深岳~源太ヶ岳)

 

 

 

私は秋田県や青森県、岩手県といった東北北部の山々が大好きです、特に秋田県は美人が多いので、訪れた時は山ばかりでなく秋田美人にお会いできるのもこれまた楽しみのひとつであります。

 

その昔、水戸の殿様が秋田に配置換えされたときに怒って水戸から美人を全員連れて行ってしまい、おかげで秋田には美人が多くなり水戸には美人がいなくなったという話があります。

 

水戸の人すいません、でもこれは私の作り話ではなくそんな言い伝えがあるとテレビで言っておりました。

 

日本三大美人県のひとつで秋田美人という言葉があるように確かに秋田県は綺麗な人が多いように思います、秋田県の山に行くたびに秋田美人と出会い、お友達になりたいと思っているところでございますが、秋田美人と山で出会っても内気な私はもじもじしてしまい結局挨拶しかできずにまったく話しかけることができないでいる次第にてございます。

 

というわけで「今度こそ秋田美人とお友達になるぞ!」と大きな決意を胸に秘め、みちのくの山を訪れることにしました…、いや間違えました、確かに秋田県は美人が多いと思いますがそれはまったく関係なく、私はみちのくの山々が大好きなのでただ単にまったく山に登りたいと思ってみちのくの山々を訪れることにしました。

 

そうそう、それから日本三大美人県からは外れてしまっておりますが新潟美人という言葉があるようにひょっとしたら新潟にも美人が多いかもしれないと、とりあえず一応ここでは書いておくことにしますね。

 

 

 

私は新潟県の北部に住んでいるので東北は比較的近いように思います、ところが東北地方はひとつの県の面積が大きいので、秋田や青森などの山々へ行こうと思うと結構遠くて、そう気軽には行くことができません。

 

ただあの素朴な雰囲気があり、母の懐に抱かれているような安心感のある山容は、長い距離を走り苦労してやっと辿り着き、あの素晴らしい景観の中に佇んで自然の一部と化したときの喜びはそこを訪れるための労力などに比べてありあまるものがあります。

 

 

 

私の住んでいる新潟県北部には飯豊や朝日のような東北を代表する山々があり、越後三山や谷川連峰など魚沼や上信越、会越の山々にも近く、行こうと思えば長野や関東の山々も東北に比べればそれほど遠いところではありません。

 

それら名山が多くひしめいているうえに川内山塊はじめ毛猛山塊や奥利根といった自然の宝庫というべき山々が脈々と連なっており、山好きにはこれ以上ない恵まれた土地柄であろうかと思います。

 

私はいつも飯豊や朝日に通い詰めておりますし、そう遠くなくわりと気軽に行ける魚沼や上信越、会越の山々も大好きです。

 

しかしどうしても時々無性にみちのくの山々に行きたくなってしまうのは、それだけ私にとって大きな魅力がある山々なのであります。

 

 

 

東北の山々の標高はそれほど高いところありませんが、山としてはまだ若く言わば幼齢期の年代ということで雨風による浸食が少なく広いなだらかな優しい山容となっているようです。

 

冬は季節風が吹き荒れ広い大地は深い雪に覆われ、春になっても傾れ落ちることなく多くの残雪を湛え、それによって木々が生育できずにその代りに湿原と池塘あるいは草原が発達して、さらに緯度の関係からなのかあるいは気象条件や積雪などの理由からなのか森林限界が低く上部は亜高山帯となっていて、それらが美しい景観を築き上げている要因になっているようです。

 

※これらの記述に関して私は地形学者でも植物学者でもなく、単に建設会社に勤務している何の変哲もないサラリーマンであり、趣味でいろいろな山の本を読んでみて書いたことであります。

 

 

 

922日 白神岳

 

今回、訪れた白神岳は正直なところ世界遺産に登録されるまでそんな山があるなんて分かりませんでした。

 

昭文社発行の山と高原地図にも白神岳は長い間掲載されてなく、ようやく近年になって八甲田山に部分掲載されるようになったようです。

 

ちなみに私は昭文社登山地図八甲田山を持っており、それは2006年度版ですが、それに白神岳は掲載されておりません。

 

それくらいマイナーな山だった白神岳も幸か不幸か一気に脚光を浴びてしまい一時は人で溢れていたそうです。

 

当然、そうなれば多くの問題が発生するわけで、山小屋よりも立派なトイレが山頂付近に建設されたことがそれを象徴していると思います。

 

最近になってようやく訪れる人も減少傾向になっているということで、私も行ってみることにしました。

 

 

 

それにしても世界遺産に登録されてはじめて白神岳の名を知り、あげくに訪れるなんて私もミーハーな人間の一人なのかもしれませんね。

 

でも言い訳をひとつ言うと、私は白神岳に登りたかったというよりも白神山地に訪れてみたいと思っておりました。しかし白神山地は普通に登れそうなところは数える程度しかなく、その中で白神山地の盟主白神岳は当然一番訪れやすいところだったと思います。

 

まずは盟主でもあり、訪れやすいということもあって今回は白神岳を選んでみたということです。

 

 

 

新発田市から登山口の大間越へは5時間~6時間程度で着くことができます。

 

同じ青森県でも八甲田山へは7時間から8時間かかるので、それを考えると意外に早く着くことができました。

 

国道には白神岳登山口入口の大きな看板が設置されていて、登山口には大きな駐車場とトイレが併設された立派な休憩所が建っております。

 

さすが世界遺産になっただけありますね。

 

当然、登山道もとても管理と整備が行き届いていて誰でも安心して歩けるようになっておりました。

 

歩きはじめるとすぐにブナの大木が目立ちます、それからアオモリトドマツも見たことがないような大木が見受けられます。

 

日本海気候影響下の山なのにこんなに立派なアオモリトドマツが自生しているのには驚きました。

 

ちなみに地質や植生の専門家の本を読むと日本のブナの原生林は世界レベルから見ても非常に貴重なものなのだそうです。

 

「地球が温暖だった頃、ブナ林は南極にあったそうです。やがて地球の寒冷化に伴って徐々にブナ林は日本と西ヨーロッパとアメリカ東部に勢力を拡大し、南極は針葉樹林帯のツンドラに覆われるようになった。

 

その後第四期氷河期の時に、世界各地で氷河が発達し大半のブナ林が打撃を受け、ほとんどが消滅してしまい辛うじて残った西ヨーロッパとアメリカ東部のブナ林は貧相なものとなってしまった。しかし日本はあまり氷河が発達しなかったので多くのブナ林は生き残ることができた。」

 

と言うのが研究者の間で定説になっているということだそうです。

 

 

 

ブナは漢字で?と書き、木に無というくらい役立たずの木だったそうです。

 

ところが日本が北方領土をソ連に取られてからそれまでパルプの原料だった針葉樹林が採れなくなり代用としてブナが伐採されるようになったそうです。

 

 

 

これは白神マタギの談ですが、マサカリを持って山に入るとそれまで静かだったブナ林が急にざわめき、まるで木々が「今度はどの木が切られるのだろう?」と言っているように一斉に騒ぎはじめるとのことです。

 

これは長年伐採作業に従事しているとわかるようになるのだそうです。

 

「木は動かないだけで生きているし感情もある」、だから必要以上に木を切ることはせず、木を切ったときはマサカリ立てという儀式をするのだそうです。

 

切株にマサカリを立て酒二升を上げ、一升は木の周りに、一升は自分たちで御神酒として飲むのだそうです。

 

 

 

山行の話に入りますが、世界遺産に登録された山の登山道はとても良く整備されており、私はこんな整備された登山道をただ普通に歩いているだけでは面白味がないと思ったので、二俣分岐からあまり人が歩かないコースを歩いてみることにしました。

 

このコースは渡渉点が二ヶ所あり、地形上急な登りの連続ということから健脚者向けと看板には書いてあり、ガイドブックなどでは紹介はされてないようです、そんなこともあってここを辿る人は確かにほとんどいないようですが、それでも整備はしっかりとされております。

 

御丁寧に急な斜面にさしかかる頃には必ず「急傾斜注意」の看板が設置されていて、あれほどの長い距離があるのに万遍なく太いクレモナロープが張られておりました。

 

確かに斜面は随分と急で、あのロープ無しではとても歩きにくいものであろうと思いました。

 

高度1100mくらいから森林限界となりますが草原帯とはならず、低い灌木か笹薮で覆われていました。

 

山頂からは白神山地の核心部が遠望でき、簡単に比較することはできませんが今回登った白神岳は新潟県の秘境川内山塊でいう粟ヶ岳あたりに相当するものと思われます、しかし矢筈岳に相当すると思われるような白神山地の核心部に聳える摩須賀岳あるいは冷水岳、尾太岳や最高峰の向白神岳など登山道の無いところにいつかは登ってみたいと思いながら延々と続く山並みを眺めました。

 

 

 

下山は通常コースを辿りますが、少し稜線を歩きたかったので十二湖コースをしばらく歩いてみました、しかし意外にも見晴らしの良い360度展望というところがほとんどなく、笹薮か灌木帯に囲まれた稜線歩きでありました。

 

これはあまりに日本海に近く、冬の強い季節風が雪を飛ばしてしまうので積雪が意外に少ないのかもしれません、その結果残雪が少なくて早く雪解してしまい灌木帯や笹薮になってしまうのではないかと思いました。

 

 

 

下山の通常コースは確かに急な坂は少なかったのですがその代わり距離が長くてなかなか大変でした。

 

途中に蟶山というピークにも立ち寄ってみましたが、展望はなくブナの樹林に囲まれた静かなところでした。

 

この蟶山の蟶は蟶貝という貝の一種で昔は蟶貝が採れた、あるいは山の形が蟶貝に似ているなどという説があるようで、海の近くに聳える山なのでなるほどと思いますが、日本山名辞典によると熊狩りの射手が待つ場所を示しているとなっています。

 

 

 

白神岳の由来については日本山嶽誌には白神岳(白上岳)と書いてあり、これは上という漢字の残雪模様が出るところからきているということでした。

 

また白神岳は地元大間越の人たちに厚く信仰されていて旧暦81日に登山を行い、祈りをささげてきたそうです。

 

また、津軽地方特有の冷風をやませと言うそうですが、このやませが吹いて不作になった年でも白神岳が盾になり西側の地区をやませから守ってくれるとのことです。

 

白神岳山頂直下には水場があり、白神岳参詣でこの水を汲んで里の人たちに御神水としてふるまったということです。

 

この水は広島原爆ドームが世界遺産に登録される際の記念式典に顕水されたとのことです。

 

この水場は夏でも枯れることがないとされているようですが、登山地図やガイドブックには明記されておりません。

 

確かに山頂直下にはこの水場を示すと思われる水路があって、私はしばらく水場を求めてこの水路を辿ってみましたが見つけることはできませんでした。

 

 

 

そんな山麓に住む人々から厚い信仰を授け、山を生業としている人たちには豊富に山の恵みを授ける白神山地の一角である白神岳。

 

今回たった一度きりですが登ってみて私個人的に思ったことは、白神山地はブナの原生林や野生動物など自然の宝庫であり、登山者が立ち入るようなところではなく白神マタギなど地元の人たちの領域にある山々なのだと感じました。

 

本来は登山対象の山と言うよりも山麓に住む人たちに自然の恩恵をもたらしてくれる貴重な山地であり、それが世界遺産に登録されたばかりに一気に登山者が押し寄せ、無理やり登山対象の山として整備されたといった感じがしました。

 

 

 

そうそうところで今回の白神岳山行では秋田美人としっかり出会いました。

 

というか実際のところ青森県民かもしれないし、もしかすると連休中に訪れた遠い他県からの登山客なのかもしれませんが…。

 

年は10歳くらいでしょうか?息を切らしながら親の後ろをやっとついて歩いる姿はどこか愛らしく感じ、段差を越えるのに苦労していたので彼女の担いでいるザックをヒョイっと持ち上げてあげました。

 

急に体が持ち上ったものだから彼女は少々驚いておりましたが、満面の笑顔を浮かべ「ありがとう」と私に言いました。

 

でも結局、女性が苦手な私は顔を赤くしてもじもじとしながら彼女が消え去る後姿をただ見ているだけでした…。

 

 

 

923日 裏岩手縦走路(畚岳~諸桧岳~險阻森~大深岳~源太ヶ岳)

 

延暦年間(西暦782805年)この頃の東北は豪族の暴挙が横行していて、中央(京都)の威令が施行されず、民生の安定は言うに及ばない未開の地であった。

 

中でも大武丸なる豪族は特に強力で多数の部下を擁し朝命に服せず霧山岳(岩手山)に根據して近隣一帯に亘り暴略の限りを尽くし民心を極度の不安に陷らしめていた。

 

霧山岳(岩手山)は当時火山活動期にありその噴煙のため山相を表すことは極めて希であったため当時は霧山岳と呼称されていたと言うそうです。

 

当時の豪族は、東北は冬季寒冷で普通の場所では凌ぎ難かったので温泉湧き、地熱高い今の岩手山付近に居を構えていたということです。

 

人びとは大武丸に怯え不安は日増しに高まり、このことが京都にまで聞こえ、ここに坂上田村麿の大武丸討伐の議が起こるに至った。

 

 

 

まず坂上田村麿は霞ヶ源太忠義、同じく忠春の2名に若干の兵を付けて物見を命じた。忠義一行は岩手山を裏から偵察すべく密かに魔地川(現在の松川)から入り一高峰に登って賊の本拠を偵察したところ討伐困難なる事が分かり、早速これを本陣に報告した。

 

この偵察に登った一高峰をそれ以来「源太ヶ岳」と称するようになった。実際にも源太岳からは西岩手火山大地獄方面がよく見える。

 

また今の松川及びその上流赤川を魔地川と称したのはこの辺り一帯には賊徒の出没著しかったので地方民からは魔地と呼ばれ、そこから来る川を魔地川と呼んで恐れていたということです、それからこれより下流の所を魔地尾と称し今の松尾の呼称はマチオに由来するとのこと。

 

さて、忠義一行の報告を受けた坂上田村麿は岩手山から攻略の作戦を変更し現在の国道46号線に沿って兵を進め、一部は今の鬼越坂方面に道を取り雫石方面に兵を進めた。

 

そして大武丸を一掃することに成功したということです。

 

 

 

しかし大武丸の長子、登鬼盛(トキモリ)が再び現在の八幡平付近で暴挙を振るうと、その凶悪振りに恐れた村民は再度の討伐を乞うたとのこと。

 

 現在、松尾村地内花輪線「岩手松尾」(現・松尾八幡平)駅付近を「時盛」と称しているが、これは登鬼盛の生活の本拠であったことに由来していると言うそうです。

 

さて、大武丸をなんなく討った坂上田村麿は破竹の勢いで再び北上して来た、かねて田村麿の知謀とその軍隊の勇猛を知る登鬼盛は鹿角郡方面に逃亡した。この方面には討伐軍は全く地理不明であったので、前記の霞ヶ源太忠義一行を再び偵察として先発せしめる事とした。

 

源太兄弟は行く程にクマザサは深くなり前進をはばまれたので岩手山を偵察した事のある一高峰(源太ヶ岳)に登って見た処、北方に大平原がが見え立木が少なくクマザサも繁なく鹿角方面に行くには唯一のコースと見たので、源太兄弟は勇躍して峰伝いに進路を拓り開き、長い苦労の後、目指す高地に到着した。山相を見ると山は高原状をなし、丈の高い立木もなく、自然のマツ(オオシラビソ)は枝振り面白く、山草の花爛漫と咲き乱れ神の国の如くで、中央には鏡のごとき大小の湖水二つあり、湖畔には水鳥遊び、洵に幽寂の湖をなしていた。

 

源太兄弟は尚も付近一帯を探査したところ、北東の一角に突き出せる岩山があるので登ってみると北奥一帯を一眼に見渡すことの出来る場所で賊徒の征伐に有利な場所であることを確認し、帰ってその絶景を讃えたのでした。

 

源太兄弟は「此の地は天下如何なる名園と雖も遠く及ばない神秘境なり」と言い伝え、将兵一同を清め、戦いの神なる八幡大神宮を勸請し、戦勝を祈願したということです。

 

時代は桓武天皇の頃、延暦23年(西暦804年)10月の中旬だったそうです。

 

そして坂上田村麿率いる討伐軍はこの高原各地の賊徒を一兵無きまでに平定したそうです。

 

一賊も残さず平定して任務を完了したので、再び彼の名勝の地、高原に全軍を集め、先に祀った八幡大神宮にその神徳を謝すると共に東征記念のため金牌を建立して凱旋の祭りを盛大に行われたと言う。この忘れ難き天下の勝地をさるに当たり坂上田村麿は八幡平と命名して凱旋した。

 

 

 

とまあいきなり岩手山や八幡平とその付近に纏わる由来や歴史の調べたことを書いてみましたが、ちょっと難しい話になっちゃいましたかね?

 

    

 

山行の話に移ります。

 

私自身このコースは5年か6年くらい前のみちのく一人旅で歩いており、今回が二度目となります。

 

その時は畚岳から大深岳を経由して源太ヶ岳には行かず三石岳に行っておりますが、その時はとにかく天気が悪くて、素晴らしい景色を楽しむことができずに帰ってきました。

 

どうしても今度は天気が良い時にまた行きたいと思っていたところだったので、再び今回訪れることにしました。

 

 

 

前回、歩いた時に思ったのでしたが、高地に付けられた八幡平アスピーテラインという観光道路はすでに森林限界を遥かに越えていて、そこから派生する岩手山あるいは秋田駒ヶ岳に通じる広く平坦な高原状の尾根はある時は牧歌的であり、ある時は北欧的であり、ある時は日本庭園のようであります。

 

飯豊や朝日とは違った美しさがあり、はっきり言ってこんな素晴らしい縦走路、私は他に知りません。

 

しかも岩手山や秋田駒ヶ岳に人気が集中しているおかげからか、この縦走路を訪れる人はそう多くないようです。

 

こんなに綺麗なところなのに人が少なく、大変に静かな山歩きをすることができました。

 

 

 

歩き始めから絶景の連続でとにかく素晴らしい!

 

最初のピークは歩いて15分ほどで訪れる畚岳という山です。この畚とは物を運ぶための道具でロープを網目状に編んだものを言い、モッコに物を入れるとお椀のような形になり、そこからこの山名がきているということです。

 

秋田県周辺にはこの畚と言う名前のつけられた山がいくつかあります。

 

畚岳はまくこともできるのですが、せっかくなので山頂に行きました。

 

山頂からは360度の大展望が得られ、遠くに岩手山が一際高く秋田駒ヶ岳と一緒に雲をなびかせながら聳えております。

 

この見事な景色を保ったまま縦走路はさらに諸桧岳へと続きます。

 

登山道はところどころアオモリトドマツの原生林の中を歩くようになりますが、諸桧とはこのアオモリトドマツのことを言うのだそうです。

 

このアオモリトドマツは日本海側の山にはあまり見ることができず、ある程度の太平洋気候の影響を受けていることが伺えます。

 

その後、名前の通り鋭峰の險阻森を通過し大深岳へと至ります。

 

通過した險阻森も見晴らしは素晴らしく、そして大深岳から先ほど歴史のところでもふれた源太ヶ岳の区間が一番のハイライトといえるのではないでしょうか、草原帯が本当に素晴らしい!

 

よく秋田駒ヶ岳が百名山に入っていないのをおかしいという話をよく聞きますが、大深岳なども入っても不思議でないところだと思います。

 

まあ百名山なんてものは個人的な意見でしかなく、逆に入っていて不思議に思うような山も数多くあるようですからね…。

 

 

 

そしてこのまま終日、見事な晴天の下で往路を戻りました。

 

 

 

下山後は後生掛温泉に立ち寄ってみました。

 

七つの湯船があり、泥風呂が基本のようでなかなか良いお湯です、でも私的には酸性が強めの松川温泉のお湯の方が好きかな。

 

 

 

帰り路、八幡平アスピーテラインを越え、そのまま国道に車を走らせると、私の目の前には2m以上あろうかという大きな熊が現れました。

 

ここは普通の国道で、たくさんの車が行き来しておりますし、近くには道路工事をしている人たちがいて、そんなところで熊に遭遇するなんて驚きました。

 

最初は近くのクマ牧場から熊が逃げたのではないかと思ったほどです。

 

仮に事故等が起きても熊の責任ではありません、観光の為に熊の生息域にまで開発した人間に責任があると思います。

 

自然が破壊され自分の住処が人の手によって侵されている熊がとても不敏に思えました。

 

それにしてもいつも熊に出会うとやってしまうことなのですが、今回も私は車から降りて熊の頭をなでなでしてやろうとしてしまいました。

 

犬や猫を普段見ているせいかと思いますが、習慣とは恐ろしいものです。

 

少しして「まてよ、熊だ!危険だ!」と思い直し、今度はカメラを出そうとするのが毎度のパターンです。

 

でも残念ながら熊はすぐに藪の中へ消えてしまい、カメラは間に合いませんでした

 

しかし山で秋田美人になかなかお会いすることができないのに熊に会うなんて…、「そういえばあの熊はもしかしたら雌かもしれない、今日は熊の秋田美人との出会いがあったのだろう、それにしてもお友達になりたくないものですなあ」なんてことを考えながら、一路新潟へと車を走らせました。

 

 

 

 

 

それから余談ですが、この八幡平裏岩手縦走では秋田美人の熊に会いましたが、実はちゃんとした人間の秋田美人との出会いが白神岳に続きあったのです、しかも3人ですよ。

 

いや正確に言うとかなり昔、秋田美人だった人と出会いました。

 

私はちゃんと「新潟から来た、今度飯豊に来てください」今度はもじもじせずにそう伝えることができました。

 

でも古い秋田美人だったので連絡先の交換はよしておきました。