正月の飯豊
平成24年12月30日~平成25年1月2日
見上げれば鉛色の空に白く吹きつけるブリザード、その嵐の中に白く聳える二王子岳、そしてその奥に垣間見える飯豊連峰。
冬期間は常に分厚い雪雲に覆われ、なかなかその姿を見せることがなく、登るどころか近づくことさえ困難な飯豊の峰々。
私の故郷である新発田市からは北股岳以北の部分が春夏秋冬いつでも美しく見え、地元の山として冬以外はいつでも気軽に登ることができます。
しかし山が一番美しい季節は純白に覆われ神秘的な自然の厳しさが一番感じられる冬であることは間違いないと思っております。
去年の正月、初めて厳冬の頼母木山から北俣岳までの稜線を歩きました。
そこは冬枯した木々、すっぽりと氷の中で仮死しているもの、動稙物達の命の痕跡などまったく感じられず、そこにあるのはただただ見渡す限り氷に覆われた凍てついた大地。
他にあるものといえば横方向におびただしく張り出している大きなエビの尻尾のみ。
ちょっと狂気じみておりますが、その凄まじい光景は地獄ではなく明らかに天国でした、まるでこの世に生を受けた者が立ち入ってはいけない、それは寒さや怖さなどを超越した死の美しさ、そんな情景が広がっておりました。
エベレスト遠征経験のある方に厳冬期の飯豊のことを話すと誰もが「エベレストより冬の飯豊の方が難しいよ。高度順応こそないだけでね…。」と皆さん口を揃えた様にそう言う、厳冬期の飯豊は世界レベル並み以上に難しいようです。
そんな飯豊ですが、できれば春夏秋冬すべての季節に分け隔てなく訪れたい、私の厳冬期飯豊の挑戦はそんな思いから始まったような気がします。
しかし厳冬期の飯豊はとにかく天気が悪い、ただ悪いということではなく簡単に遭難してしまうほどの厳しい悪さであります。
だからといって運良く天候に恵まれたとしても登頂は容易ではなく、それどころか近づくことさえ困難であり、しっかりとした下準備や体調管理等、それができてからこそ初めて正月の飯豊に挑むことができるのではないかと思っております。
今年は正月飯豊山行に向けて例年以上にトレーニングを積みました、その割に腹の贅肉はあまりとれませんでしたが体調はある程度万全な状態に近づき、いつもより入念に多くの準備を整えて、随分苦労してようやく臨んだ山行でありました。
しかしそんな努力もあまりにも無情すぎる悪天候に阻まれ、無残な結果に終わってしまいました。
あまり内容の無い山行ではありましたが、とにかくその一部始終を日記に書き、この結果を次回に生かしたいと考えているところであります。
12月30日
単独で正月の飯豊に挑戦するのは今年で2回目、去年のように多くのサポートは望めないのではと思っておりました。
しかしそんな私の思いをよそに下越山岳会から矢沢さん、金井さん、新井田さんの3人と朝日連峰狐穴小屋管理人のあだっつぁんとしょーこちゃんがかけつけてくれ、総勢5人もの人たちがラッセルサポートの協力に来ていただき、なんだかんだ言って私は幸せ者です。
今日は気温が高く雪が締まっていてラッセル自体はそれほどの深雪ではありませんでしたし、視界も良好で下から稜線まで良く見えておりました。
しかし初日から生憎の雨にうたれてしまい、さらに気温が高いと汗をかいてしまうので内外から衣類が濡れてしまうといった条件で今回の正月山行は幕を開けました。
一度濡れた衣類は湿度の高いテント内では乾かすことができず、湿ったまま今後やって来る寒気に晒され、すべてが凍り付いて、凍傷に陥るといったことが懸念されます。
しかも寝袋やダウンジャケットといった羽毛類は極端に湿度に弱く、それら生命線が機能しなくなれば下山、最悪の場合は遭難という形で幕を閉じることになってしまいます。
そんなことから冬の雨とは最悪を意味し、それが初日ということは最初から最後まで濡れたまま凍傷の危険性をはらみながら山行を続けることになります。
そんな嫌な雨にうたれながらも冬の飯豊の稜線が綺麗に見え、そんなせめてもの救いの中5人のサポートの人たちは私を先導してくれました。
雪の湿り具合がちょうど悪く、わかんの裏側には30センチもの雪が付着し、高下駄のようになって皆さん歩いておりました、その高下駄を履いて歩く姿はまるで京都の舞妓さんのようです。
「舞妓はんどすえ」と語り掛け合いながら皆さん歩かれているようで、ただ一人スノーシューの私はそんなわかんによる舞妓はん走法を駆使した頼もしいラッセルを後方から仰ぎ見ながら順調に枯松峰まで辿り着きました。
時刻は11時半、ベースキャンプの大ドミはすぐそこです、皆さんここまでだろうと思いましたが新井田さんだけ大ドミまで来てくれるということで、私は遠慮せずお願いしました。
そしてちょうど12時に大ドミ到着。
大ドミ到着時刻としてはかなりのハイペースになりました、どうりで疲れたわけです。
雨は徐々に強くなってきていましたが、できるだけ濡れたくないので昼食は食べずに早々にテントを設営しました。
しかし時すでに遅し、雨具はもちろん着用していた衣類からザックまですっかり濡れ物になっておりました。
ガスはかなり余分にあるのでテント内を温めますが、やはり一向に乾くようすはありません。
夜は寝袋を濡らしたくないので濡れ物は脱いで、素肌にダウンジャケットを着て寝袋に入りました。
雨は夕方頃から次第にみぞれに変わり、夜にはすっかり雪となってテントを覆いはじめておりました。
気温は下がり風も出てきたようです、夜8時にテント周りを除雪しますが降りしきる雪とどんどん強まる風におちおち寝ていることができません。
ここから4時間置きの除雪が始まりました。
12月31日
強風、大雪のため停滞、除雪は相変わらず4時間置き。
濡れた衣類はまったく乾く様子がないので濡れたまま着込んでいると熱で乾くようで、いわゆる着乾しということで凌げそうです。
雪はどんどんテントを覆い、除雪で跳ねた雪がテント周りに積もり、除雪から雪掘りへと変わっていきました。
雪でテントが埋もれてしまえば遭難ということになります、ゆっくり寝ていることができず除雪と仮眠を繰り返して一日が過ぎてしまいました。
1月1日
天気は今日も昨日と何も変わりません。
天気情報は坂場さんと笹川さんから時折送られて来ておりました。
大ドミはラジオが入らないので天気予報ですら聞くことができません、そんな中で天気概況が送られてくることは大変にありがたいことでした。
入山前から絶望的な天気予報ではありましたが今日は回復傾向にあり、僅かな望みに期待していた日でありました。
冬期はシベリアから定着型の高気圧が張り出し日本列島を覆います、これがいわゆる寒気団で、この寒気団は冬の間ずっと居座り続けて発達したり緩んだりを繰り返しておりますが、1月1日は一旦緩むという年末の予想でした。
その緩んだ間隙を縫って移動性高気圧でも来てくれればいいのでしょうけれど、今回は低気圧が発生するようで晴天とまではいかないのでしょうけれど、寒気が緩み低気圧通過前に一時的に天候が回復する可能性があるようで、通過する場所や発生する低気圧の勢力にもよりますが一時的に好天をもたらす場合もあるようです。
これを疑似好天と言い、この疑似好天が2時間か3時間程度で終わる場合もありますが、12時間以上も続くような場合もあるようです。
実は入山前から私は1月1日もしくは2日あたりがこの疑似好天になるかもしれないと僅かな望みを賭けておりました。
ただし、この疑似好天時に行動に移ったものの短時間で荒天となり遭難した事例も多くあるようなので細心の注意をはらって行動しなければなりませんが…。
ところがそんな私のささやかな願いも虚しく無情にも降り続く雪、これではテントから離れる訳にはいきません。
テントシューズやダウンジャケットは水分を含んでしまいもう着ていることができなくなっています、それでも雪は降り続き除雪は延々と続きます。
最後の砦の寝袋だけはどうしても濡らすわけにはいきません、寝袋まで湿ってきたら万事休すです。
テント周りには高く降り積もった雪、限界は徐々に近づいてきております。
除雪に追われ動けない日々「暇なときは歌でも歌おうか、誰もいないところで大きな声で歌の練習をすれば下山する頃には歌が上手くなっているかもしれない」「カラオケセットでも持って来ればよかった」そんなことを考えながらテントの外へ出てみると、風は弱まっていて雪もやや小降りに…。
「これだとテントから離れられそうだ。」時刻は昼を過ぎているので遠くまでは行けないが歌はやめて少し動いてみることにしました。
テン場は膝上までのラッセル、視界は100mくらいだろうか。
三匹穴の登りでもラッセルは変わらない、時折強風に吹かれ行く手を阻まれる。
三匹穴到着の頃には吹雪のため視界も半分くらいになる。無理せずここで退散、ゆっくりと夕暮れ前にテントへ戻りました。
日が落ちる頃、雪が止み風の音もなくなってテントから顔を出すと満天の星空になっている、ようやく疑似好天がやってきたようです。
久しぶりに過ごす静かな夜、「今日はゆっくり眠れそうだ」。
今晩は除雪と風の音から解放され安息の夜を迎えられそうです。
坂場さん、笹川さんからの情報によると明日は低気圧が通過したあと風が強まるとの情報が提供されているが、この静かな状態がせめて明日の午前中まで続いてほしいと祈りながら寝袋に身を沈めました。
1月2日
猛烈な風が吹きテントが飛ばされそうになるほどの爆音に驚いて飛び起きる、テントは1分ほどで半分くらいまで雪に埋もれてしまった。
時刻は夜中の2時半、急いでテントから飛び出し除雪を始める。
あまりの強風で目を開けていることができず呼吸もできない。手袋やテントシューズはみるみるうちに凍り付くが、除雪の手を止めると一気にテントが埋もれていく、「明るくなったらもう帰ろう、でもちゃんと生きて帰れるのだろうか?」テント周辺の高くなった雪の壁を見上げながら真剣にそう思い始めるようになりました。
体は疲れきって睡眠不足も限界でありましたが、猛烈な嵐に耐えながら必死でテントが押し潰されないよう除雪を続け、ただただ夜が明けるのを待つしかできませんでした。
「下山したらしばらく山は行かなくていいな」なんてことを考えながら何とか夜明けを迎え、余っていた凍りかけのパンを一つかじりながら早々にパッキングを済ませるも撤収に結構手間取り下山を始める頃には8時近くになっていました。
下山はかつてない腰までの大ラッセルに苦労しました、でももう焦る必要はなくゆっくり帰ります。
下るに従い徐々に風と雪は弱まり、気温も上がってきます。
精神的に余裕が出ると先ほどのことはどこへやら、「今度はどこの山に行こうか」とか「今回のリベンジはいつにしようか」などと考えてしまっております、我ながら懲りないものですね。
本来は1月3日下山の予定で、3日は坂場さん、渡部さん、新井田さんが迎えサポートの準備をしてくれておりましたが急な下山により今日は誰も来ません。
例年ですと西俣峰附近までは迎え隊が来てくれたのですが今回は一人です、いつもは迎え隊のトレースが付いているのですが、ないと結構道間違えしそうなところが多くあって注意しながら下山しなければならないことに気が付きました。
大曲まで来るとさっきの吹雪が嘘のように気温が高く雨になっていて、ラッセルは相変わらず腰までありましたが雨で重くなっていて登った時の舞妓はん走法を思い出しながら何とか奥川入り荘へと帰還しました。
下山は深雪のため7時間以上かかり、雨に始まり雨に終わった山行となりました。
奥川入荘に着くと主人に「天気が悪く暇だったろう?誰もいないから暇つぶしに大きな声で歌でも歌ってればいいんだよ、今度カラオケでも担いで行く?下山したら歌が上手くなってたりしてね」と言われました。
奥川入荘には井沢さんが泊まりに来ていて私を待ち構えておりました、彼女は電車でここまで来て、帰りは私の車で帰るということです。
一日早く下山したものだから私も奥川入荘の主人に頼んで何とか隙間にでも寝させてもらうことになり、奥川入の美味しい田舎料理と酒を御馳走になりながらようやく人間に戻ることができました。
翌日、朝食を頂いていると峡彩山岳会の方々がこれから登られるということで挨拶を交わしました。
皆さん年配の方ばかりで驚きました、今日は猛吹雪だというのになんという力強い方たちでしょう…、羨ましい。
きっと若いころは精鋭で、困難な登山を多く経験されてきた大ベテランの方たちなのだろう。
帰り際、井沢さんが「田中さんは疲れているでしょうから私が運転していきましょう」と気を利かせてくれましたが道路はアイスバーンになっていて吹雪いています。
私は昨日まで飯豊で怖い思いをし、ようやく命からがら下山してきた身分です。
せっかく生きながらえることができたというのに、もう怖い思いはしたくありません。
「いやいや、私が運転して帰ります」そう言うと彼女も安堵の表情になり、ちゃんと自覚しておられたようでした。
今回の山行は歌が上手くなることができず、あんなにトレーニングをしたのにあまり腹の贅肉は減らず散々な結果となってしまいました。
いや、そうではなく悪天候に見舞われベースキャンプ地からほとんど動くことができず散々な結果となってしまいました。
一時はちゃんと帰れるのか心配したほどの悪条件で無事に下山できたという安堵の思いとあれだけの準備をしたのにせめて頼母木山くらいまでは行きたかったという悔しい思いと精一杯できるだけのことはやったという満足感とが入り混じって下山後はしばらく放心状態になってしまっていたと思います。
入山前の12月28日と29日はこの時期としては非常に珍しく好天に恵まれておりました。
その後天気が崩れることは明らかでした、正直なところ中止にすることも考えましたが行かなければ登頂することは絶対に無理、指をくわえて遥か飯豊を仰ぎ見ながら後悔するくらいなら僅かな望みに賭け、努力することが大事だと考え、無理してはいけませんができるだけ精一杯のことを自然の驚異に逆らい思いっきりもがいてみました、自然に勝てるわけがないことを知りながらでも…。
だから後悔はありません、逆に今までの中でも最悪な条件で山行を経験することができて良かったと思っております。
それから天候のせいばかりでなく私自身の判断に甘さがあったでしょうし技術的にもまったく及ばず、努力不足であったのかもしれません。
反省点はこれからいろいろ分析する必要はありますが、いずれにしてもこの山行は間違いなく次からの山行につながっていくことになります。
下山後、数日たってから下越山岳会の若い女性が大好きな年寄りの大先輩と話をする機会がありました、その方は「最近いーわげしょいねすけのう」と言っておられました、通訳すると「最近は良い若い子がいなくなっている」ということです。
当会に限ったことではなく全般的に昔と違って厳冬期の飯豊に行くようなイキのいい若者がいなくなったということを言っているのでありまして、余計なことを書いてしまいましたが、決して若い良い女性がいなくなったという意味ではありません。
以前、雑誌で「下越山岳会は飯豊地元の山岳会として厳冬期の飯豊にも登っている」といったような内容で紹介されているのを目にしたことがあります。
私が下越山岳会に入会した当初、正月飯豊山行は恒例行事であり多数の参加者がおられました。しかし今は私一人です。先輩たちから教わった正月の飯豊、それは正月の飯豊の登り方だけではなく多方面の登山に参考になっております、私を最後にそれは絶えてしまうのでしょうか?
私のような者でも正月の飯豊に挑戦できるのですから、他の若い人たちが行かないのは決してイキが悪いからということではなく家庭や仕事の事情等いろいろ理由があってのことかと思われますので仕方がないことでしょう。
そんな私も40代後半となった今、年々体力が衰えていることは明らかです、まだ去年と同じことができるのですが去年は楽々できたことが今年は苦しみながらやっとできるという始末です。
50歳をすぎたら厳しい山行は止めるという方も結構おられるようで、私も今年は年男となり、その50歳が足元まで近づいてきております。
50歳で区切りをつけるつもりはありませんが、あと何回正月の飯豊に行けるのか分かりません、分別をつけるときはそう遠くないかもしれないです。
できれば若い人たちは気力と体力があるうちに、もし興味があるならできるだけ機会を作って厳冬期の飯豊に挑戦してみてほしいです。
年をとってからではなかなか大変ですよ、若いうちにしかできない山行でしょうからね。
あるいは若いころから経験を積んでおくとあとで楽なのではないでしょうか、おそらく…峡彩山岳会の方々のように。
最後に今回の山行でお世話になった朝日連峰狐穴小屋管理人のあだっつぁん、しょーこちゃん、小国の高橋さん、井上さん、下越山岳会の佐久間さん、坂場さん、矢沢さん、笹川さん、小林稔長さん、金井さん、新井田さん、それから下越山岳会の皆様方、いろいろお世話になりました、御心配をお掛けしました、ありがとうございました。