以東岳の写真
普通登山
粟ヶ岳、米山、以東岳
ホームページ名を“静かな山へ”というタイトルにしたものの、いつも静かな山ばかりってわけにはいかず、単独登山が基本ですが、仲間と山に行く時だってあるわけで、それにいつも登山道の無い山ばかりって訳にはいきません。特にこれからの時期、雪解けが進み、山の緑はどんどん深さを増していき、草木は勢いを増し、登山道の無いところは歩けなくなってしまいます。そして山の幸も終わってしまうので、藪を歩いても山の恵みの恩恵を授かることはなくなり、私にとってはこれから秋までは受難の季節ということになります。したがってどうしても普通の登山という形態で入山せざるを得ません。
ちょうどそんな時に知り合いの女性から「今度の土日に粟ヶ岳と米山に行くけど、一緒にどお?」って連絡が入りました、私は女性からの誘いは絶対に断りません。粟ヶ岳といい米山といい気軽に登れる山ですし、ちょっと軽い気持ちで行ってきました。
それから私の所属する山岳会で、たまには若い人たちを誘って行くことも必要だなと思い声をかけてみたところ、以東岳に行きたいとのことでしたので、若い衆二人と以東岳に行ってきました。
※ちなみに私も若いです。
これからの季節の主流になる私自身不慣れな普通登山を3回も連続で行ってきたので、それらをまとめて簡単に日記に綴ってみました。
6月11日 粟ヶ岳 水源池より山頂往復。
粟ヶ岳の粟とは古語で表層雪崩のことを言うそうです。麓からは雪崩が多く見える山のようです。山岳信仰等は古いものではないようですが、山中には粟薬師があり、登山道の傍らにはところどころ、石仏が祀られておりました。おそらく近年地元民により祀られたものではないかと思われます。
この日、天候はあまり良くなくじめじめとした日でした。新発田市からは約1時間で登山口に着きます。
私自身、粟ヶ岳は川内山塊を縦走した時に室谷から矢筈岳、青里岳を通り、堂ノ窪山方向から粟ヶ岳に登頂し水源池に下山したことと、白山から縦走した時に権ノ神山方向から登頂し水源池に下山したことがあるだけで、直接登るのは今回が初めてでした。しかも2回とも雪深い季節でしたので、無積雪期にここを訪れたのも初めてでした。
登山道は非常に良く整備されており、山頂手前の砥石沢ヒュッテも大変綺麗な小屋です。
地元山岳会の愛着心が大変に反映されていると感じました。
ただ残念なのは山蛭が多く生息していて、今は登山口の付近から注意が必要ということです。
登山中に何か靴の中が湿っている感じがしており下山後に靴を脱ぐと、靴下は血で赤く染まっておりました。すねの付近から流れ落ちる血はいつまでも止まらず、絆創膏を幾重にも貼付け、翌日までそのままでした。翌日、血は止まりましたが、絆創膏を貼った部分がかぶれて痒くなり、蛭に食われた所よりも大変でした。
6月12日 米山 大平口往復
米山も粟ヶ岳と同じく薬師如来が祀られており、以前は薬師岳という名前だったそうです。古くから大変に山岳信仰の厚い山で、山頂には薬師如来を祀った立派なお堂があります。
これは和歌山県の熊野修験道が長野県の恵那山から分霊を貰い、米山に恵那薬師を祀られ、山名は「えな」がなまり「よね」になったという説があります。
また石川県の白山で修験者として修行を積み、開山した泰澄大師が弟子の沙弥とここを訪れた時に夢でこの山こそ「薬師如来の住む山」というお告げを受け、山頂に薬師堂を建設し、麓の密蔵院は薬師堂の別当院で、これも泰澄大師が建てたとされております。
またそれ以外に米山の山名由来には大変に有名な伝説があります。
泰澄大師の弟子の沙弥が山頂で修行を積んでおり、日本海を行き交う船から米を恵んでもらっていたそうです。沙弥は優れた妖術を身につけており、小さなお椀を妖術で船まで飛ばし、船の乗組員がお椀に米を入れると、また自分のところまでそれを戻したそうです。ある日のこと、一艘の船に米を恵んでくれるよう頼んだところ、拒否されたので怒った沙弥は船に積んである米俵をすべて米山山頂まで飛ばしてしまい、慌てた船長が詫びたところすぐに米俵を元に戻したということです。
日本海に大変に近く、海からもよく目立つ米山は船の方向指示にも一役かっていた山だそうです。
登山の話ですが、大平林道は土砂崩れのため車輌通行止めで集落から歩きましたが、それでも楽々登頂でした。ファミリー登山の良き山という感じでした。
それからこんなに人と会った山も久しぶりです、人に慣れていないので恥ずかしいやら照れくさいやら大変でした。
とにかく登山者の多い山で、登山届を提出されている範囲での話ですが、新潟県集計で米山はベスト3に入っているそうです。ちなみにベスト3の他の山は巻機山と二王子岳ということです。
私自身、米山は約20年ぶりに登りました、あの当時コンビニなどはなく、自分でおにぎりを握って持って行き、泊り山行だと飯盒持参の時代でした。
その時は後輩と一緒でしたが、後輩のザックから雨具がはみ出していて、後輩が下を向いた時にその雨具が落ちたので「落ちたよー!」って教えたところ、雨具を拾おうとさらに下を向いた時のことでした、ザックの雨蓋が外れ、中身がドドッと落ちてしまい、その中のおにぎりがコロコロと斜面を転がり、水溜りにポチャンと落ちてしまいました。
最後の水溜りに落ちる様子はまるでスローモーションを見ているようでした。20年経った今でも目を閉じるとあのおにぎりが鮮明に脳裏に浮かんできます。
そんな良き思い出のある米山を久しぶりに堪能してきました。
6月19日 以東岳 泡滝ダム往復
私の所属する山岳会はここのところ研修会やら講習会やらの行事に力を入れておられるようで、肝心の山行が少ないように感じます。机上や講習で学んだりするよりも実際に行くことが山を覚えるには最適ということは、私が言わなくても明らかなことです。
山の楽しみ方は奥が深く、単純に山に登る以外にもさまざまな楽しみ方があり、研修や講習などもその中のひとつだと思いますが、そこで得る知識は後から付いてくるもので、やはり山に行くことから始まるものではないでしょうか。大変に余計なお世話かと思いましたが、若い人には変に知識を得て頭デッカチにならなければいいなと思い、とにかく山へ誘ってみました。
そうそう、それからくどいようですが、そんな私も若い衆の一人です…。
たまには山岳会のためにと思い、若い人二人を誘いましたが、先輩風を吹かすようなことはしたくありませんでした。大抵の方は日常生活の社会組織の中で縦割り社会の中に身を置いておられるのではないかと思われます。しかし登山は趣味であり、そこにひと時の安堵みたいなことを求めている方がほとんどかと思います。俗世から逃れた時くらいは心から楽しみたいものです。
山岳会に入会すれば登山のスタンスは広がり、一人では得ることができない多くの知識や経験を得ることができるものでありますが、面倒で煩わしい人間関係や先輩後輩といった縦社会、それが嫌で山岳会に入らない人も多くおられるようです。
私自身は先輩ずらしたりして縦社会を構築したくありませんでした、本来は山という自然が相手であり、山の世界にまで人間社会を持ち出すことはとても嫌なことです。
山岳会とは言うものの、最低限の礼儀はもちろん必要ですが、先輩後輩もなく結局は皆さん山仲間であってほしいものです。(自分の父親よりも年上の方を捉まえて山仲間なんて言う事は本当に失礼な話だと思いますが、趣味でのことなので許してください。)
幸いにも私が所属する下越山岳会は皆さん紳士、淑女ばかりで、先輩風を吹かすような人はいません、ベテランや年上だからといって偉ぶる人もいません。安全登山に努めながらも、ただただ楽しむことができると思います。
そんなことで今回の彼らとの山行もできるだけ気を使わず、自然体で接するようにしました。
さて、山岳会の話が長くなってしまいました。以東岳の内容に移ります。
以東岳くらいの素晴らしい山はなかなかありません、中腹にはアクセントともなっている神秘さを湛えた大鳥池があり、時には美しく、時には自然の驚異に翻弄させられ、観光地化されておらず、朝日連峰主峰の大朝日岳にくらべて人が少なく、自然は残っている方だと思います。そんな以東岳ですが、好天に恵まれれば最高の山行にならないわけがありません。雪で少し歩きにくいところもありましたが、特に危険な箇所は無く、山菜を採りながらの楽しい山行となりました。朝日連峰が山菜の宝庫というのは相変わらずのことでした。
ただ登山口から少し進んだ沢を渡渉する箇所が崩落しており、今回は雪をつたって通過できましたが、せっかく吊橋を掛けたばかりのようなのに来週以降の通過はどうなるか気になります。ちなみにここの林道や登山道は土砂崩れ等で通行不可になることが度々あるようです。
三角峰を過ぎたあたりからは、初夏の花々が咲いており綺麗でした。彼らは無事に以東岳に来れたことに対していろいろとお礼を言われましたが、自分自身で歩いたのですから、私はほんのちょっと手伝いをしたに過ぎません。私自身も彼らのことを、会主催の山行で一緒した時では気付いてなかったことが多く分かり、個人的に一緒に山へ行くことができて良かったなと感じました。
彼らからはいろいろお礼を言われましたが、私自身は大鳥池で水を汲んでいる時に水筒を褒められたことが一番嬉しかったです。
以東岳の山名の歴史について私自身は調べてもまったく分からず、謎の山名でした。しかし越後山岳第7号で佐藤さんが素晴らしい記述をされておられましたので引用させて頂きます。
かつて三面集落ができる前までは三姓の平家の落ち人が隠れ住んでいたとされております。そのうちの一姓が伊藤さんで、猿田川と泥又川一帯を持ち山とし、熊やカモシカの狩猟をし、また鳴海金山近くの猿田金山で砂金を採掘していたということです。三面最奥の支流に以東沢がありますが、その沢は伊藤さんの縄張りだったのではないかとされております。国土地理院が地図作成時に人名を避けるため以東をあて字にして記したのではないかということでした。
私はこの以東岳にはもう20年近く通っております、以前に比べて入山者は増え、ツアー登山も多く見られるようになり、自然は随分と薄れてきています。この自然を壊さないでいてほしいと泡滝ダムに出来た広い駐車場を見るたびに思いますし、途中の三角峰登りでの石畳道を歩くたび心が痛みます。
私自身はこの以東岳は思い出のたくさんつまった山で、苦しいことや楽しいこと、ここに来ると素晴らしい景色に見とれる以前に、非常に多くのことを思い出してしまいます。あの奥深い自然は私の思い出と一緒に、いつまでも残っていてほしいと願っております。