令和1年度5月26日

 

池ノ搭

 

 

 

私は気が向いたときにだけ山行文を掲載していて、毎回山に登るたびに掲載をするというようなことはしておらず、気まぐれ気ままにホームページの運営をしております。

 

今回の池ノ搭に関しても面倒と感じたので掲載しないつもりでおりましたが、山はもうすぐ夏山となり、私にとっては秋までシーズンオフに入るので、その前にもうひとつくらい掲載しておこうと考えました。

 

そんなことから面倒と思う気持ちにムチを打ち、病んだ心を奮い立たせ、あまりにも病弱な身でありながら、相当に無理を押してまでも今回は掲載をする運びに至りました

 

まあこんなものと言ってしまうのも何ですが、特に誰かのために書いているわけでなく自己満足で書いている程度のものですから、どうでもいい話なのですが、掲載した山行以外にも登っている山はいくつかありまして、私程度の者がなんでも知っているなんてことはまったくありませんし、人にアドバイスなどとてもできる立場ではありませんが、知っている範囲ではお答えできますので、何かありましたらお気軽にお問合せをくださいということをお伝えしたかったので、冒頭からどうでもいいことを書かせていただきました。

 

 

 

さて本題の池ノ搭に入ります。

 

越後駒ケ岳は普通に登山道を歩いていると特に問題なく歩くことができるのですが、その周囲を見渡すと登山道から外れたところは岩と痩せ尾根で形成されており、特にフキギから池ノ搭、アオリ、カネクリ山といった妙な山名が続く尾根は、とても人が入れるようなところではなさそうで、秘境を好むあまり、まともな登山道を歩けなくなった私でさえ、その付近だけは敬遠しておりました。

 

越後駒ケ岳の北面には金山沢の大岩壁があり、この大岩壁は昭和20年代の終わり頃から注目されるようになり、雑誌「山と渓谷」の編集長を務めた岡部一彦氏曰く「スケールは一ノ倉沢の三倍から四倍、高さも一ノ倉以上の壁はいくらもあり、その傾斜の強さといい、スラブの悪さといい、谷川岳が中学生としたら大学級と思えば間違いありません」と当時コメントしているそうです。

 

それからというもの、多くの人たちが金山沢岩壁攻略を目指して集まるようになったとのことです。

 

小出郷山岳史によると昭和35年に横須賀山岳会の遭難を皮切りに遭難事故が頻発し、その都度対応に追われる地元の人たちは不満を抱いていたそうです。

 

捜索に行こうにも地元の限られた人しか入ることができず、その人たちにすれば「危ないところへやってきて、遭難するのは勝手だが、そのたびに仕事を休んで助けに行く方の身にもなってほしい。二重遭難のおそれもあるし、万が一の場合何の保証もないじゃないか」といった非難の声が救助に当たる人たちの家族からも挙がるようになっていたそうです。

 

そして昭和37年に新潟大学山岳部の二人が遭難してから入山規制の動きが活発となり、昭和39年に事実上の入山禁止となったそうです。

 

しかしその後、付近は越後三山只見国定公園に指定してもらって観光資源として利用しようという動きが出てきて、立入禁止地域があるのはマイナスなのではないかということと、無断で入山する人が後を絶たず、知らないうちに遭難されたのではかえって迷惑ということ、それからたびたび各山岳会等からも入山禁止を解いてほしいとの要望が多く上がっていたとのことで、昭和45年に条件付きで解禁をしたとのことです。

 

駒ケ岳の北面はそんな歴史の上でもその険悪さが物語られており、その危険地帯の上に池ノ搭は聳えており、私程度ではその付近を訪れることはとても無理だろうと考えておりました。

 

ところが、もう随分前のことになりますが藪山のパイオニアである羽田さんから数名の人宛てに連名でメールがあり、それは「池ノ搭に行きませんか?簡単ですよ」といった内容のメールでした。

 

羽田さんにとっては簡単でも私は難しいのではないだろうか?といった心配もありましたが、せっかくなので恐々でも行ってみようと思っていたところ、理由は忘れましたが、結局その時は中止になってしまいました。

 

それ以降、くすぶる想いを抱くようになり、いつかは行こうと思うようになりました。

 

それにしても羽田さんは簡単だというのだが、果たしていったいどこから登るつもりだったのだろう?

 

地形図を見ながら考えると。折立又新田集落奥の林道から尾根を伝って行くのが最短で行けそうでしたが、「藪の状況はどうなのか?普通に駒の湯山荘から手別山経由で向かえば距離は長いもののもしかすると踏み跡があるのかもしれない」といったことを考えてみたり、ほかにも山頂手前からの痩せ尾根は急な岩壁の上り下りがありそうな地形となっており、その付近は無事に通過できるものか心配でもありました。

 

道の無い山は未知の世界であり、いつも行くときは少なからず不安を覚えるのですが、特に今回は行く前から岩記号だらけの地形図を見てビビっておりました。

 

でも行ってみなければ分からない未知の世界はハラハラドキドキが多くてその分楽しめるし、歩きながら訪れる困難と厳しさをその時の状況に応じて工夫し、臨機応変に対応しながらそれらを克服して、そして最後に登頂した時の喜びは大変に大きなものとなります。

 

それが道の無い山歩きの面白さであると思うのですが、とにもかくにも今回はいつも以上に不安感に襲われておりました。

 

5月の後半、本来は爽やかな季節であるはずなのに、気温は30度を越える予報となっています。

 

不安要素に猛暑の藪歩きも加わりそうで、気持ちは折れそうになります。

 

それでもとにかく行ってみなければ分からないわけですから、今回はダメ元で偵察ということで行ってみようと考えたら、気持ちはいくらか楽になりました。

 

早朝に霞む空気の中、折立又新田集落を抜けた林道を奥に向かって車を走らせます。

 

集落から立派な広い林道を4キロほど走ると予定していた入山口に着きました。

 

国土地理院の地形図で言うと、ちょうど365と標高表記がしてあるあたりです。

 

朝のうちは肌寒いと感じるほど冷えており、涼しいうちにできるだけ進んでおこうと考えました。

 

車から降りて辺りをうろうろしながら入山しやすい場所を探しますが、ここ数日の猛暑で春を通り越して夏の様相となった山麓は激しい藪となっており、どこから入っても大差なさそうでした。

 

辺りは山菜採りが入っているのか斜面には足跡がついているので私もその足跡に沿って藪の中に身を投じましたが、思った通り足跡は入り口付近だけで、あとはひたすら藪の急斜面を登って行きます。

 

しばらく登れば尾根に行きつき、そこからは尾根歩きになりますが、まさかこんな小さな支尾根に踏み跡があるとは考えられず、尾根上は夏の日射しを浴びて伸び切った木々に支配されていて、通過にはかなり難渋することを予想しておりました。

 

せめて日射しを遮るようなブナの大木が生い茂る尾根であれば大藪は回避できるのだが「ここは魚沼であり、奥三面や飯豊山麓のような訳にはいかないだろう」と思っておりました。

 

ところが斜面を登りきって尾根上に出てみてびっくり、そこには古いものでしたが鉈目が付いていて、灌木や草が少しうるさい程度の踏み跡が確認できます。

 

ところどころ日当たりの良いところはシャクナゲに悩まされましたが、概ねはっきりとした踏み跡には大いに助けられました。

 

こんな踏み跡が付いているならもしかしたら登頂できるかもしれないといった淡い思いが湧いてきますが、まだ登り始めたばかりでこの先どうなるか分かりません、安心することなく気を引き締めて進んで行きました。

 

やがて尾根と尾根が合流し662m峰となりますが、手前から右に曲がればいいものを藪で周囲の見通しが利かず右に派生する尾根を見落としてしまい、662m峰の山頂まで行ってしまいました。

 

何しろ辺りは藪の中で山の形状がさっぱり分からず、藪の中を探し回り、右に向かう尾根を見つけるまで結構苦労をしてしましました。

 

ここからは今まで散見された鉈目がなくなり、踏み跡も一時はまったく確認できませんでしたが、しばらく進むと再び踏み跡らしきものが出てきました。

 

相変わらず鉈目などの人為的なものは一切見当たらず、踏み跡も662m峰までのもののように明瞭なものではなく、いわゆる獣道といったものなのでしょうか?いくら薄いとはいえこの踏み跡が続いていると助かります。

 

その後、踏み跡はシャクナゲにより鎖されたと思えば再び現れ、そんなことを繰り返しながらもどうにか順調に歩くことができて、今日の登頂が少しずつ現実味を帯びてきました。

 

標高1000mを越えたあたりから時々残雪が出てきて、残雪上を歩くと手を使わずに歩け、ハンズフリーとなるのは楽なのですが、藪の中と違って夏のような強い日射しをもろに浴びることになり、私の薄くなった頭頂部を直撃します。

 

あまりの強い日差しに手ぬぐいを被っているのにもかかわらず暑さで朦朧とするうえ、今日の手ぬぐいは苺模様の手ぬぐいなので、このまま藪を避けて雪上を歩いていると頭頂部に苺模様の日焼け跡ができてしまいそうなので再び藪の中を歩くようにしましたが、薄い踏み跡によって時間的にはあまり差がなく歩くことができたように思いました。

 

今日はとにかく暑いので、意識的にゆっくり歩くようにして、休憩もこまめにとり、さらにいつもはあまり多く取らない水分を今回は多くとるように心がけました。

 

そうこうするうちに池ノ搭の名前の由来と思われる池の畔の大地へと到着しました。

 

池はまだ雪に覆われておりましたが、中心部が僅かに解け始めて水たまりができつつあるようでした。

 

こんな山奥に雪解けとともに姿を現す神秘的な池は、すぐ近くに聳える搭に見立てた岩峰を湖面に映し出すのでしょうか?池からは八海山が大きく見え、付近を見渡すとフキギ、アオリ、カネクリ山といった妙な山名が並んでいます。

 

これらカタカナ表記の山名はいったい何なのでしょうか?

 

アオリという山名に関しては新潟県内にだけに3座あり、他県にはないようです。

 

川内山塊の青里岳に関して、青は緑のことを言い、森が深いといった意味合いの山名とのことですが、川内山とその周辺という書物には青里岳と関係があるのか分からないがアオリとは方言で越して歩くところ、といったことが書かれています。

 

そのことからフキギやカネクリも方言の可能性がありそうで、いろいろ調べてみるとカネクリについてはつららのことを方言で「かなこおり」というのだそうですがそれがカネクリに転化されたということも考えられます。

 

フキギに関してはまったく分からなかったのですがフキとは炉師のことを言うそうですし、また鍛冶屋のことをフクジと言うのだそうで、いずれも鉱物に関する言葉のようですが、以前はこの付近に銀山平をはじめとした鉱山が多く有ったということを考えると、こじつけと言えばこじつけなのですが、それらの言葉が転化された可能性もありそうだと思いました。

 

さて、行程としてはここまでくるともう4分の3くらい進んでいて、山頂まであと少しとなってきました。

 

ここまできたのなら何とか登頂したいという気持ちになりますが、ここから先の尾根は手別山からの尾根と合流した辺りから痩せ細って岩っぽくなり、例の危険地帯へと突入し、遠くには岩峰っぽいところも見えるので、やはり楽観することはできません。

 

池のある大地から先は急な長い登りとなりますが、ここからはそれまであった踏み跡がまったく無くなってしまいました。

 

尾根上はブナ林となっているのですが、細いブナなので日当たりが良いのか、太くて立派なシャクナゲが足元を埋め尽くしています。

 

そんな時、左側を見ると運よく残雪があり、それが手別山から延びる尾根との合流点近くまでありそうでしたので、頭頂部に苺模様の日焼け跡が付くのを覚悟で雪渓上を歩きました。

 

逃げるように藪から雪の上に這い出て、堅く締まった雪にステップを刻みながら手別山尾根の合流点に着くことができました。

 

ここからは森林限界となるようで、尾根上は岩と灌木のみとなっており、展望も大変に良くなります。

 

これから進む先には池ノ搭が双耳峰となって姿を現し、一つ手前のピークは左側の斜面が崩落しており、右側を伝って登るほかないようですが、あまりにも急で果たして登れるのか不安がよぎります。

 

池ノ搭の左側に目をやると一ノ倉沢を凌ぐスケールといわれている金山沢の大岩壁を従えて越後駒ケ岳が残雪を湛え聳えております。

 

さらに足元に目をやると金山沢鉱山道が見え、岩肌をトラバースするように削って付けられた鉱山道は壮絶で、当時の鉱山就労者の苦労が偲ばれます。

 

道具もない当時はこの絶壁に道をつけるのは容易なことではなかったでしょう。

 

小出郷山岳史によると、この金山沢鉱山は幕末期からほそぼそと銅の採掘が行われていたとのことです。

 

この鉱山は明治24年に6万8千坪の鉱区を設定して、小出町の星順介氏が経営に当り、真山鉱山の名称で大正9年まで銅を採掘していたそうです、その後鉱山は人手に渡り、最後は不二鉱山に引き継がれたものの業績が振るわず終戦後に間もなく閉山となったとのことです。

 

また、そんな大岩壁の上方にはフキギが聳えておりますが、藤島玄氏の越後の山旅によると、地元の小出山岳会によって新吾鉱山が昭和7年に廃鉱になって以来放置されていた鉱山道を利用して、フキギに直登して駒ケ岳に至るルートを開削しようとしたのだが、フキギとその上部があまりにも険悪のため投げ捨てられたといった内容のことが書かれています。

 

他にも高石沢の付け根からヨモギ山に登って郡界尾根を辿って駒ケ岳に至る道があったとのことですし、センノ沢沿いにもオタスケ道という炭焼道があったとのことですが、現在はどれも藪化しているものと思われます。

 

ちなみに家にある古地図を引っ張り出してみると昭和29年発行の国土地理院地形図が出てきて、それを見た限りでは地形図上に新吾鉱山道以外の、それら道の表記はありませんでした。

 

ここからは少し岩の上を歩くようになり、一時的に藪からは解放されるのですが、なにしろ痩せた岩尾根なので足を滑らせれば一巻の終わりとなります。

 

慎重に岩の上を進んで行くとすぐにまた猛烈な激藪となりました。

 

岩の痩せ尾根上を所狭しとシャクナゲが埋め尽くしており、そこに松やシラビソといった針葉樹が枝を横に張り出し、人が通るにはあまりにも狭い空間となっておりました。

 

誤って尾根から足を踏み外さないようにしながら木の枝の隙間に体をねじ込みますが、なかなか思うように進まず、目指す池ノ搭はなかなか近づいてきません。

 

尾根はほぼ水平で上り下りがあまり無いのがせめてもの救いでした。

 

どうやってこの枝の隙間を通過しようか頭を悩ませるようなところも強引に入り込んでいくしかなく、来ている服がはだけ脛や腕は傷だらけになりました。

 

やがて双耳峰の一つ手前の峰への壁が迫ってきますが、あまりの大藪通過に必死で、急な壁どころの騒ぎではありませんでした。

 

この急な壁は5m程度が2段くらいのものでしたが、濃い藪のために高度感はまったくないまま木々の隙間を這いあがりボロボロになりながら双耳峰の一方に出ることができました。

 

この山頂は岩峰となっており、ここから本峰へは見るのが嫌なほど藪となった尾根が続いておりました。

 

見るのも嫌なので見なかったことにして進んで行き、少し広がった尾根の上を時には枝を避けるために地べたを這って、時には幹の間を縫って、最後に灌木をかわしながらようやく池ノ搭の山頂に立つことができました。

 

狭い山頂は脛くらいの灌木に覆われており、展望は360度得ることができます。

 

駒ケ岳はもちろん八海山も近く、越後三山の2座が手に取るような位置にあります。

 

八海山の奥には巻機山から続く谷川連峰まで見え、その反対側に目をやると遠くに守門岳や浅草岳の峰々も遠望できます。

 

訪れることは無理だろうと諦めていた池ノ搭でしたが、後半は大藪となりましたが、途中までは踏み跡に助けられて無事に登頂を果たすことができました。

 

羽田さんが簡単だよと言った言葉を思い出し、羽田さんが私たちを連れて辿ろうとしていたルートがここだったのかどうかは確認しなければ分かりませんが、いずれにしても今回はこのルートで来て運が良かったなと思いました。

 

追記

 

下山後に思ったのですが、この時ついでにアオリ山にも登って来ればよかったと、今更ながら思っている次第です。

 

アオリ山は池の大地から近くに聳え、時間的にも余裕があって、この日は十分に行って来ることができたと思います。

 

今回は池ノ搭の登頂で満足してしまい、アオリ山のことはまったく考えずに下山してしまいましたが、いつか機会があったら同じルートで登ってみたいと思います。

 

 

 

取り付き箇所(365m表記) 6時間 池ノ搭 5時間 取り付き箇所(365m表記)