令和2年5月23日~24日

 

丹後山~越後沢山

 

 

 

奥利根の代表的な伝説「ねこばば」の話。

 

昔、ある家におばあさんがいて、孫をたいそうかわいがり毎日抱いて寝ていた。

 

ある日の朝、なかなか起きてこないので家人が呼びに行くと「手を一本食ってから」と変な返事がきたので見に行くと、おばあさんは耳まで裂けた血だらけの口に孫の腕をくわえて宝川の奥に逃げ込んでしまった。それから山奥では木こりや猟師が行方不明になった。おばあさんは年取った猫が化けたもので、地元では「ねこまた」、「ねこばば」と呼び、それ以来宝川に入るときは「猫幽と呼ばれる岩穴に近寄ることも「猫」という言葉を口にすることも禁物になったそうです。

 

「奥利根・秘境の素顔」によると利根川初の水源探検が行われたのは明治29年9月のことで、地元藤原の人夫たちはねこばばを恐れて日本刀、ピストル、猟銃まで持参するほどのものものしさだったそうです。また明治8年ごろ、そんな妖怪が出ると恐れられた洞穴「猫幽」で八人の越後マタギの白骨死体が見つかり、地元では「ねこばばに食われたんだろう」と噂になり、結局死因が分からないまま迷宮入りとなったそうです。

 

付近は秋田、新潟、福島のマタギが縄張り争いをしているところであり、実際のところ秋田か福島の猟師がテンをとる毒薬キニーネをどぶろくにでも混ぜて飲ませたのではないか、あるいはマタギのように巻狩りの伝統は無いが冬眠中の熊を捕る「穴狩り」をしていた群馬県藤原の猟師が真犯人だった、といった噂も広まったそうです。

 

関東の水瓶である利根川の源流部の山々は2000m級の峰々がそんな多くの歴史を秘めながら悠々と連なっておりますが、この山域は登拝の歴史が無く、鉱物資源を求める一部の入山者はいたそうですが、猟をするために入山する人がほとんどで、付近一帯はマタギの領域としての山域だったようです。

 

そのようなことから登拝や登山のために道が付けられることが無かったため自然が多く残った秘境として越後三山や巻機、谷川連峰に囲まれながらも異彩を放っているところであると思います。

 

自分たちの水瓶である利根川源流を訪れたいと思うのか、関東方面の方たちには人気の山域となっているようですが、新潟県民の私としては水瓶と言った概念は当然なくて、ただ素晴らしい山並みが続いているのに道が付けられていない山域に大いなる魅力を感じて訪れるといった次第であります。

 

今回はいくつか連なる秘境のうちの越後沢山に行ってきたわけですが、越後沢山という名称は郡県側にある越後沢の源頭の山がそのまま山名になっていて、群馬県側にある沢なのにどうして越後沢という沢名なのかについては利根川と越後沢出会いには三段の台地があって昭和初期頃までは越後の猟師小屋があって、おそらくそこから沢名につながったのではないかと云われています。

 

そんな越後沢山には平成29年に尾瀬から入山して谷川連峰の朝日岳を経て土合に下山した時に通過しております。

 

また平成26年の6月に日帰りで丹後山から向かったのですが、あまりにも大藪で時間切れになってしまい途中敗退したといったことがありました。

 

今回も丹後山から向かうので、以前に途中敗退したことを踏まえて一泊で向かう計画で行きました。

 

初日は丹後山の付近まで登るだけなので時間的に余裕があります、泊りは丹後山避難小屋ではなくテント泊としました、おそらく他の宿泊者は居ないであろうと思うのですがコロナによる自粛が解除された直後だったので小屋泊りは避けたいと考え、丹後山と越後沢山の間にテントが張れるような雪渓を探して幕営する予定で十字峡を出発しました。

 

最初に辿る林道はゴールデンウィークの頃だと怖いトラバースの連続で一番の核心部となり得るのですが、今年の極端な少雪と5月から夏のような暑さとなった気候に5月の4週目ともなればさすがに林道上の残雪はまったく無くなっております。

 

この時期はヒキガエルが恋の季節を迎えており、水たまりには多くのヒキガエルがひしめき合いながらパートナー探しに励んでおり、私がすぐ脇を歩こうともお構いなし、下手をすれば踏まれて大怪我を追うかもしれないというのに逃げもせずひたすらパートナーを取り合おうとするその純真な恋心に称賛の意を表し、私はヒキガエルに深々と一礼をいたしました。

 

以前、私はこの林道を歩いていたらゲロゲロと声がするので誰かが疲労か何かが原因で気持ち悪くなって吐きもどしているのかと思ったのですが辺りを見渡しても人の姿は見えず、よく聞いてみるとゲロゲロの声はヒキガエルの鳴き声だったことに気付き、それ以来私はここを林道ヒキガエルラインと勝手に名付けております

 

そんなヒキガエルラインを過ぎると丹後山に向けていよいよ急な登りが始まります。

 

ここは何度登っても疲れますが、特に今回は自粛生活で体が訛っており、運動不足を実感しながら登りました。

 

941m峰の前後は一時的に急登が緩和されますが、とにかく延々と続く長い登りに辟易してしまいます。

 

そうこうするうちに空には暗雲が垂れ込み始め、怪しい雲行きとなってきました。

 

苦労してようやく訪れた丹後山の山頂付近はガスに覆われて景色は何も見えません。

 

越後沢山の方を眺め、テントの張れそうな雪渓があるかを確認することができず、さらには頭上からパラパラと雨が落ちてくる始末。

 

とりあえず丹後山避難小屋に入り込み、天候が回復するのを待つことにしました。

 

時刻はまだ12時前、軽い昼食を済ませ昼寝をしながら雨が上がるのを待ちますが雨足は強くなる一方で止む気配がありません。

 

結局、夕方まで待っても土砂降りの雨が屋根をたたき続け、このまま山小屋で一夜を過ごすはめとなりました。

 

案の定、他に宿泊客が来ることは無く一人静かに山小屋で泊まることができました。

 

それにしてもこの丹後山避難小屋は飯豊の門内小屋や頼母木小屋と作りが全く同じで、山小屋の工事を多く担当させていただいている私としては小屋に使われている細かな部材や造りなどをあまりにも暇だったということもあってついつい観察してしまいました。

 

丹後山登山道の設置に伴い昭和55年9月22日に完成したこの避難小屋は時期的にも門内小屋や頼母木小屋と一緒ですので、もしかすると設計者が同じ人なのかもしれません。

 

この小屋を建てるときは新潟県と群馬県で随分と物議をかもしたという話は有名で、特に立地場所を決めるのに苦労したとの話を聞いています。

 

詳しく分かりませんので、あくまで個人的な印象でありますが、当時の少ない資料を読んだ範囲ですと開発を進める新潟県側とそれに対する群馬県側との間に少なからず摩擦があったのではないかといった感じを私は受けました。

 

さて、屋根を激しくたたく雨音が聞こえなくなった朝方に薄明るい外を見てみると、辺りは濃いガスにまかれており、数メートル程度しか見えない視界となっています。

 

このまま諦めて下山しようと悔しい思いを胸に、とりあえず朝食を食べていたところ、再び窓から外を眺めると僅かでしたが白い世界の中に薄く青さが混ざって見えています。

 

これは天気が回復してきていることを物語っており、急いで朝食を食べてとりあえずまた外に出てみると、稜線上はまだガスに覆われていますが、新潟県側はガスが切れて青空が広がっています。

 

「よし、行こう」そう決意し早々に支度を終えて出発、そして登山道から外れて笹薮に突入しようとする頃、稜線上の雲はほとんど無くなり越後沢山が姿を現しました。

 

進む先には意外と残雪が多く残っているように見え、雪堤が結構使えそうで、以前に敗退した時のような大藪との格闘は随分と回避することができそうです。

 

それでも出だしは笹薮の大海原を進んで行かなければならず、笹の背丈は腰から胸くらいまででで、かろうじて頭が出ているので何とか方向を見ながら進むことができます。

 

丹後山から一度緩く下ってから今度は緩い登りとなりますが、そこを登り終えると灌木が出てきて進むのが少し大変になってきます。

 

風下である群馬県側に残雪が多く残るので、藪から逃げたいと思う気持ちから残雪を求めて体は自然と群馬県側に向かいます。

 

藪の向こう側に白いものが見えると心が躍り、藪から解放された体も踊ります。

 

雪渓上では狐がこちらをじっと見ながら様子をうかがっているのが見えます。

 

少し近づいたところでサッと逃げて行ってしまいましたが、実は狐を見た時は必ずといっていいほど何か予想外のことが起こります。

 

道迷いのような悪いこと、あるいは予定していたよりあまりにもあっさり簡単に登頂するといった良いことなど、それは様々でした。

 

今日は何か悪いことが起きなければいいが、逆に良いことがあればいいのだが一抹の不安に駆られながら歩きました。

 

尾根は最初に緩い登りを終えた辺りから残雪上を歩けるようになりますが、稜線上は再び濃いガスに覆われてしまいました。

 

これでは方向が分からないうえ、このまま残雪上を歩けるのかどうかも分からずルートどりが困難になってしまいます。

 

せっかく晴れると思ったのに狐と出会ってから再び私はガスにまかれてしまいました。

 

「何も起きなければいいが・・・」、10m程度しかない真っ白な視界の中、盲目の行進が始まり、広い尾根をゆっくりと進んで藪にぶち当たると群馬県側に残雪を探しては右往左往を繰り返し、白い闇の中を彷徨いながら少しずつ進んで行きました。

 

地形図を見ると県境ラインがくねくねと蛇行している部分があり、その辺りの藪がとても酷くて、前回はその付近で敗退してしまいましたが、ガスにまかれた中で心細いながらも何とか続いている雪堤に助けられて前回敗退したところはすでに越えているようです。

 

そうこうするうちに地形図の1710m峰の付近まで来るとガスが一気に切れてその全貌を見ることができるようになりました。

 

1692mの最低鞍部の手前のピークでいよいよ雪堤が無くなって灌木と笹に覆われた密藪の中を進むことになりましたが、ここまで来れば越後沢山までもうすぐです。

 

1692mの最低鞍部からはまた雪堤が現れて、それが山頂まで続いているのが見えます。

 

空には限りない青空が続いており、もうガスの心配は無さそうで、狐の呪いから解放されたようです。

 

そして越後沢山山頂に向けていよいよ最後の急な長い登りとなり、ここでアイゼンを着けて進みました。

 

一歩一歩雪を踏みしめながら何度も休憩して、ようやく急坂を登り終えると細長い越後沢山の山頂へと出ることができました。

 

山頂は膝下ほどの笹薮となっていて、そこに疎らに灌木が混じっております。

 

展望は360度の大展望で、群馬県側のガスがまだ少し多めでしたが新潟県側はすこぶる晴天で越後三山や巻機山が素晴らしいいパノラマとなって目を楽しませてくれます。

 

それにしても幅が1mも無いくらいで長さは20m以上あるような特異な越後沢山の山頂は、妙に細長くなっていて、切れ落ちた新潟県側は大藪となっており、郡県側は露出した岩肌に不安定な雪堤が今にも崩れ落ちそうに張り付いております。

 

意外と残雪が多く残っていて簡単に登ることができた越後沢山は5月中であれば日帰りでも十分に来られるということが分かったので、来年以降にまた日帰りでいつか来たいと思いました。

 

丹後山から巻機山の間にはこの越後沢山の他に下津川山や小沢岳といった登山道の無い名山が聳えており、そんな秘境の一角に登ることができた喜びをかみしめて越後沢山をあとにしました。

 

 

 

コースタイム

 

1日目

 

十字峡 4時間30分 丹後山 

 

2日目

 

丹後山 2時間20分 越後沢山 1時間50分 丹後山 2時間20分 十字峡