平成29年8月13日
二居集落~平標山~谷川岳~ロープウェイ~土合
本題に入る前にまずは去年の8月12日に経験した出来事をここで書いておこうと思います。
それは門内小屋の屋根修理を終え、さらに御西小屋トイレを修理して、御西岳から飯豊本山を周ってダイグラ尾根を下山したときに経験した出来事です。
これは今まで特に公表することなどありませんでしたが、私自身このことは登山時にいつも心の片隅に置いておくようにしていることであります。
門内小屋から御西小屋へと作業の場を移し、御西小屋のトイレの修理を無事に終えて一段落した私は御西小屋管理人の斎藤さんと草刈さんから酒をたくさん御馳走になっておりました。
そんな宴の席で草刈さんから「明日は桧山沢源頭付近を散策するので一緒に行こう」との誘いを受けておりました。
御西小屋からは昼前くらいに発てば日没前には下山できるので、翌日はその時間を目安に御西岳北面から放射状に広がった、非常に広大な桧山沢の源頭部へと私は下り立っていました。
桧山沢は飯豊連峰屈指の大河であり、源頭部の最初の一滴を受ける範囲は広く、なだらかな御西岳から天狗岳にかけてそこから流れ出るたくさんの滴が合流するとすぐに大河へとその佇まいを変えていきます。
そんな桧山沢でひとしきり水遊びを楽しんでから、天狗岳方面の登山道に向かって草原の藪尾根を登りました。
冷たい水と戯れた後だけに8月の陽射しは余計に強く感じ、息を切らしながらようやく登山道と合流し、そして予定通り昼前に御西小屋を出発しました。
飯豊本山を越えるとここで稜線とお別れです、作業のため長い時間滞在した飯豊連峰を名残惜しみつつサヨナラを告げ、延々と続く長い急な下り坂を下りはじめました。
ピークが四つある宝珠山は激しい上り下りを繰り返すうえ足場が悪く、ここで随分体力を消耗してしまいます。
私自身ダイグラ尾根は何度も歩いていて、ここを歩くのはこの年だけでも登り下りをあわせると三度目となっていたので、ペース配分は熟知しているつもりでした。
非常に苦しい千本峰を通過する頃、目の前で遭難者がヘリで運ばれていきました。
なんでも熱中症が原因で動けなくなっていたそうです。
今まで遭難の現場を何度か見てきましたが、いつ見ても相変わらず気分は良く無いものです。
そして休み場の峰まで来たところで難所は終わり、あとは急坂を下るのみです。
この時点では精神的にも体力的にも余裕があり、不安の欠片はまったく感じられませんでした。
作業のため一週間ほど山に滞在していた私にとって待ち焦がれていた家路がもうすぐということもあり、休み場の峰は疲れの出てくるところでもあります。
また、ずっと二千メートル級の涼しいところにいたわけですから、下山と共に気温が上がり、標高が下がれば下がるほど涼しさに慣れた体は暑さでバテるようになります。
今までも夏場に山小屋作業などで滞在期間がある程度あった場合は下山とともに暑さでバテバテになるのは何度も経験済みでした。
私に異変が起きたのは長之助清水のあたりまで来たときでした。
それまでまったく普通に歩けていたのに、ここまで来て何故か猛烈な疲労感を感じます。
また足のみならず全身の筋肉が痙攣を起し激痛が走るようになったうえ、猛烈な吐き気が襲うようになりました。
長之助清水でしばらく休憩すると筋肉の痙攣は治まり何とか歩きはじめるも、急坂を半分くらいまで下った頃から再び全身が痙攣をし始め、波のように押しては寄せる吐き気は一段と強くもよおす様になりました。
それからは「10分休んで10分歩く」を繰り返しますが、あとわずかで吊り橋というところでとうとう歩くことができなくなってしまいました。
陽は徐々に傾いていき、ヘッデンを出そうとするのですが激痛で手もよく動かすことができず、大変に苦労してヘッデンを出すといった始末です。
痙攣のため全身に痛みが走るのですが、何とか振り絞って吊り橋まで下り、ここまで来れば登山口までは普通に歩いて30分ですが、その30分が歩けるかどうか分かりませんでした。
ただここには水があり、ビバーグすることも可能なところなのでいくらか回復を待ってからツェルトと寝袋を出そうかと考えました。
その前に食料をほとんど摂っていなかったのでパンをひとつ頬張りましたが、固形物を飲み込むことができません、不思議なものでいつも普通にやっている“食べる”という動作ができず、何とか無理やり水で流し込むのが精一杯でした。
しばらく休憩していくらか痛みが和らいできたのを見計らい、「やはり帰ろう」と思い、重い荷物を何とか担ぎ上げ吊り橋の先に手掛かり足掛かりの無い2mほどの悪い段差があるのですが、そこを20分くらいかかってようやく乗り越え、どうにかこうにか林道に出て、林道に出るとある程度足が動くようになったので、無事に車に戻ることができました。
ところが少し力を入れただけで体中が痙攣し、そのたびに激痛に襲われるので、家までの車の運転も大変でしたし、家に着いてからも風呂に入ろうと服を脱ぐのに30分もかかるといった始末でした。
後で症状を調べてみても熱中症にも脱水症状にも当てはまらない部分もあって原因がよく分かりませんでした、私は医者ではないので病名については深く追及する必要はないと思いましたが、ただいつもと同じように歩いていたのに何故このような症状に見舞われたのか?
何が悪かったのか、その原因については知っておきたいと考えている次第です。
いずれにしても、病名は何であれ自分自身の体質として危険信号を察知するのに今後に役立つものであると考えました。
また、山で危険に遭遇した時はまずは冷静にならなければいけないということはこれまでの経験で分かっていたことでしたが、なかなか冷静でいることは難しいものだということも経験上分かっていることでした。
しかし今回は「何度も歩いていてルートを熟知していたということ」、「翌日は会社が休みだったということ」、「しばらく休憩すると少し痙攣が治まるといったことから回復が可能で、時間がかかっても帰れると思った」といったことなどから、冷静でいることができたと思います。
さていよいよ本題に移ります。
谷川岳から平標山に至るこのルートは以前に一泊で歩いたことが2度ほどありました。
しかしここは日帰りが可能で、いつか行ってみようと思っていたところですが、他にも行きたい山が多くある訳ですし、飯豊の作業登山の煩雑さ、あるいは悪天候などによって盛期の休日は潰れてしまい、なかなか訪れる機会に恵まれずにおりました。
そうこうするうちに気が付くとあれから10年もの月日が流れておりました。
また私自身、ここ近年は道の無い山を好んで登るようになっており、登山道の整備されたルートとなると益々遠ざかるばかりで、今年もつい先日までは奥三面の道の無い山々に好んで通っていた次第です。
しかしいい加減に暑いということもあって少し涼しくなるまでの間くらいは登山道を歩こうと考え、この谷川岳から平標山区間を訪れる機会が巡ってきたといった運びでの山行でした。
ルートは反対側の平標山から登ることにしました、理由は下山でロープウェイを使って楽をしたかったからです。
実は先日、北アルプスの朝日岳を日帰りで訪れた際に下りで古傷の膝を痛めてしまっておりました。
また平標山への登山口は二居集落からにしました、こちらの理由は冬に日白山からの縦走を考えて、一度無積雪期に歩いておきたかったからです。
朝6時、雨が上がったばかりのどんよりとした黒い雲が厚く空を覆うなか、二居集落から林道を歩き始め、小さな標識に導かれながら登山道へと入っていきます。
ところどころ設置されたこの標識がなければ入山口は分からないと思います。
雨に濡れた草でズボンが濡れないように気を付けながら急坂を登りますが、お盆だというのに梅雨の様な空のお蔭で暑くはありません。
トントン拍子に松手山を過ぎ、平標山を通過して仙ノ倉山に到着しました。
ここまでは登山者が多く、何の変哲もない山歩きであります。
平標は文字通りかつて三国峠を往来するために平らな頂に道標があったとされる山名とのことです、しかし古い文献にはどれを見てもここは大源太山となっているそうで、おそらく間違って地図にでも標記され、そのまま近くに聳える別の山が大源太山になり、ここは平標山にされたのではないかとのことです。
ちなみに大源太とは諸説がいろいろあるそうですが「大険阻」からきているとの説が有力なのだそうです。
また仙ノ倉については千ノ倉とも言い、倉とは岩のことを言うので仙ノ倉山は岩だらけの山ということになります。
しかし仙とは滝のことを言いうので、滝と岩の山という意味なのかもしれません、確かに近くには西ゼンや東ゼンといった沢が流れております。
さて、ここから先がいよいよ佳境となる訳ですが10年ぶりとなる今回は、以前の記憶はすっかり薄れていて、初めて訪れるような、そんな気分でまずはヱビス大黒ノ頭を目指し、仙ノ倉山から延々と続くは急な下りを進んでいきます。
痩せた少し岩っぽい尾根はなかなか歩きにくく、仙ノ倉山までとはガラッと様相が変わります。
嫌というほど下らされてから今度は急な登りへと変わります。
以前に歩いた時にすれ違った人が「ヱビス大黒ノ頭は縦走路の山ではなく、ひとつの単体の山だよ」と言っていたことを思い出します。
南魚沼郡誌によるとヱビス大黒ノ頭は上州側の呼び名だそうで赤谷川側から見上げた岩峰をヱビス様か大黒様に見立てて名付けた山名とのことです。
谷川連峰らしい痩せた岩尾根はこのヱビス大黒ノ頭を越えたあたりまで続きます。
ヱビス大黒ノ頭から再び激しい下りとなりますが、少し尾根も広がって幾分なだらかで歩きやすくなったように感じます。
長い坂を下りきったあたりでこの縦走路の最低鞍部と思われる毛渡乗越というところに出て、右側からの登山道と合流します。
ここはかつて猟師が獲った獲物をこの沢筋を使って引きずりおろしたというところだそうで、沢には獲物の毛が多く残ったところだそうです。
そして今度は長い登りとなりますが、このあたりから1年前に飯豊で経験したあの吐き気と同じ症状に襲われるようになりました。
このあたりからガスは途切れるようになりガキガキとした谷川連峰の厳しい主稜線を見渡せるようになりますが、ガスが途切れると同時に強い夏の陽射しが私の薄い頭を照り付け、意識まで朦朧としてきます。
人には洗髪が楽だという理由でよく羨ましがられますが「いや、それにしても何だかんだいって髪の毛はあった方が良いですよ!」
特に私の場合、側頭部に分厚い髪の毛がしぶとくへばり付いており前頭部と頭頂部がほぼ無いといった状態で、そこに雨が降れば頭頂部に水が溜まり、今日のように日が照れば地肌を直撃するわけです、ましてや雪などの日は冷たくて大変です。
寒い日は頭頂部が凍って河童と間違われそうになるので、寒い時期に岩手県遠野地方にはとても行くことができないのではないかと思います。
また悪いことに私は帽子が嫌いなのでどうしようもありません、手ぬぐいをいつも頭に巻いておりますが、手ぬぐいは生地が薄いので時折照り付ける陽射しは痛いほどでした。
昭文社の登山地図ではここから越路避難小屋まで10分のコースタイムとなっておりますが、このきつい登りでは10分は到底無理で、実際のところ30分くらい見ておいた方が良いように感じます。(ちなみに後日、最新の地図を確認すると20分に修正されておりました。)
身体の痙攣はありませんが、吐き気のため非常に苦しい思いをしながら何とか越路避難小屋まで辿り着き、しばし休憩をとりました。
この小屋は狭いですが一段高く設置されていて、ジメッとしてなく休憩をするにはこの縦走路中一番快適な小屋のように思います。
宿泊する場合は水場がないので反対側から来た場合は小障子避難小屋の水場から水を汲んで、ここまで来て宿泊するのが良いのではないかと思いました。
越路避難小屋から万太郎山までは緩やかな登りが続き、本来は谷川連峰の厳しい山並みを眺めながら悠々進みたいところですが、何しろ吐き気が止まらず、もう昼近くだというのに何も食べる気がしません。
万太郎山は連峰の中央付近にまるで縦走路を分断するように大きく聳える山で、飯豊連峰で言えば北俣岳にあたるような感じでしょうか。
山名は万太郎谷という沢筋からきているそうですが、万太郎と言う猟師が二度も禁漁を破って猟をしたのが原因で神罰が当たり、その沢で遭難死したところから名付けたとされているようです。
ただ、万太郎山と言う山名は最近のものだそうで、以前は越後側ではサゴーノ峰、あるいはサツゴノ峰と呼んでいたそうで、サツゴノとは刺子のことを言うのだそうですが、刺子とは何なのかいろいろ調べてみると、どうやらムシロやゴザを織るため道具のようで、それに山容が似ているところから名付けられたようです。
万太郎山の前後は比較的穏やかな山容となっていて、私のような者でも容易に歩くことが出来ます。
しかし一難去ってまた一難、万太郎山から下りきると目の前には大障子ノ頭が大きく聳えております。
大きな岩山の大障子ノ頭はヱビス大黒ノ頭と同様に上州側の呼び名だそうで、この大岩を障子(衝立)に見立てて名付けたものではないかと思います。
それにしてももう昼近くなのに食欲がなく、何も食べていません。
目の前に大きく聳え立つ大障子ノ頭を登るにあたって、吐き気はありますがここで何か食べなくてはとチョコレートを二粒口にし、そして急な登りをとても苦労して登りきりました。
ところが大障子ノ頭でしばらく休憩するといくらか体調が戻り、また尾根も緩やかな歩きやすい下りが続いたこともあってこの区間はそれほど労することなく小障子小屋へと到着することができました。
小障子小屋を通過し、ここから最大の難所であるオジカ避難小屋に向けて長く急な登りを進みますが、何故だか足腰が軽くなり、確かに地獄のような登りに思わず坂道の途中で足を止め休憩する場面もありましたが、心配した吐き気は随分と治まり、足腰は疲れているものの痙攣を起すような予兆や雰囲気はまったく感じられません。
おそらくさっき口にした二粒のチョコレートが効いたように思います。
もう一年以上も前にスーパーの安売りで(ウオロクの火曜市)88円で買った不二家ルックチョコレートは薬効あらたかでした、色が変色していたあたりが良かったのかもしれません。
ちなみにオジカ避難小屋のオジカとは雄鹿という意味だそうです。
付近を流れる沢に大きな雄鹿がいたところからオジカ沢と名付けられたそうです。
このオジカ源頭ノ頭は上州側の呼び名だそうで、越後側の古い文献には越後富士、あるいはそのまま富士山と掲載されているようです。
そしてほどなく谷川岳の肩ノ小屋に到着、谷川岳の双耳峰は薄雲がかかっています。
この双耳峰はトマノ耳とオキノ耳と呼称されておりますが、トマとは手前、オキとは奥の意味だそうです。
谷川岳は古くから山麓民に厚く信仰されていた山で、トマノ耳には薬師如来が祀られ、オキノ耳には浅間神社奥之院が祀られております。
これには伝説があって1380年にオキノ耳付近で白光が煌いて富士山に祀られている浅間大菩薩が降り立ったとのこと、それ以来オキノ耳に浅間神社が祀られ越後富士と呼ばれるようになったとのことです。
さて、肩ノ小屋に着いたものの時刻はまだ午後2時手前です、このまま西黒尾根を下山しようと思いましたが肩ノ小屋で管理人さんから飲み物を御馳走になって話をしながらゆっくり休憩しているとあっという間に時間が過ぎてしまいました。
「泊まっていけ」という有難い言葉を背に、休憩に長い時間を費やしたお蔭で西黒尾根下山は断念し、一目散にロープウェイ乗り場に向かって駆け下りました。
途中、ロープウェイまで下りながら見るからに初心者と思うような登山者たちで埋め尽くされた登山道、初心者を馬鹿にする気はまったくさらさらありませんが、ここはあまりにもマナーが悪くて、やはり西黒尾根を下るべきだったと反省しながら無事に下山することが出来ました。
今回は何事もなく無事に山行を終えることが出来ましたが、以前に経験した吐き気といった予兆を確認した山行でもありました。
喉元過ぎれば熱さを忘れるようではいけません、忘れてはいけない経験を書き記しておきたいということと、久しぶりに歩いた谷川連峰のルートを記録しておきたいと思い、今回は作文を書いてみました。
本題が終わりましたが、遭難話が出たついでということで、さらにここで私が実際に経験した話を恥ずかしながらお話しようと思います。
これは私の数少ない山仲間なんていうとおこがましいのですが、三条の木戸さんが「日本一の自己満足」という本を出版された際に、記念に山仲間に文章を募ってそれを小冊子にするといった粋な計らいがあり、そこに私が寄稿させていただいたものを、手を加えず、そのまま掲載しています。
内容は私が山で遭難紛いの痛い目にあいながらも、その果てに体験した不思議な話を四つ書かせてもらっています。
①雨飾山にて
私が登山を始めて2年目の年でした、春に残雪の雨飾山に登ろうと思い、小谷温泉に向かいましたが、まだ残雪が多く残った登山口付近はどこから入山すればいいのか分からず、当時は標識など設置されていなかったこともあり、入山口を見つけることができずに右往左往したあげく、結局そのまま適当に斜面を登って山頂を目指すこととしました。
ところが登山経験が浅く、知識もほとんど持ち合わせていなかった私にとってそれは無謀極まりない登山であったことは言うまでもありません。
素晴らしく晴れわたって澄んだ青空に見事なブナの新緑が映え、よく写真集で見かけるような景色の中を遠くに見える雨飾山めがけて悠々とそして闇雲に斜面を登っておりました。
ところが案の定でした、良くは憶えてはいないのですがどうやら私は沢筋を歩いていたようでスノーブリッジを踏み抜いてしまい、雪と共に沢の激流へと落下してしまいました。
私は必死で何かに掴まろうとするも、ただ流されるばかりです。
このまま激流に飲み込まれてしまうのではないかと思ったその時にザックが川岸の何かに引っ掛かったようで、急に体が止まりました。
私は必死でもがきながらも沢をよじ登り何とか落下した穴からスノーブリッジ上に抜け出すことが出来ました。
沢をよじ登りながら「何に引っ掛かったのだろう」とふと思い、その付近を眺めてみましたが不思議なことに引っ掛かりそうな物は何一つ見当たりませんでした。
何故、あの激流の中で止まることが出来たのか今でも不思議に思います。
もしかして私は何か不思議な力に守られているように思えました。
②朝日連峰にて
これもやはりまだ私が登山を始めたばかりの頃の出来事です。
4月、早春に泡滝ダムから大鳥池まで行き、凍結した大鳥池の神秘的な景色を楽しんだその帰りの道、あの大鳥川沿いに付けられた雪崩の巣と言われるへつり道もあと少しで終わるという頃、残雪に覆われたトラバースに辟易した私は「ちょっと一息つこう」と思って水筒を出し、近くにあった倒木に腰を掛けようとしたとき、それまで無風だったのに急に強い風が吹いて水筒の蓋がコロコロと転がっていきました。
5m程離れたところで蓋は大きな石にぶつかって止まり、私はそれを拾おうとして石のところへ行き、そのままその大石に腰掛けようとしたところ、さっきまで私が休憩をしようとしたところにブロック雪崩が発生し、さっき腰を掛けようとした倒木もろともガラガラと音をたてながら大鳥川の奈落へと落ちて行ってしまいました。
その光景を目の当たりにした時はしばらく体が固まって動けませんでした。
不思議にも急に強い風が吹いたお蔭で難を逃れることが出来たわけですが、あの時は雪崩に巻き込まれなくて本当に良かったです。
これもまた何か不思議な力が働いたような感じがします。
③正月の飯豊にて
私は下越山岳会というところの会員ですが、以前は正月に飯豊に登るのが恒例行事でありました。
正月の飯豊は稜線に出ると人など簡単に飛ばされるほどの凄まじい強風が吹き荒れています。
また、天候によっては濃いガスにより方向が分からなくなります。
私たちは道迷いを避けるために長さ1.5mほどの竹で作った標識を数メートルおきに立てながら進んでいきます。
あの強風と吹きつける雪に負けないように太くて頑丈な竹をいつも200本ほど準備して登っておりました。
私はその竹を90本ほど担いで歩いていたのですが、背面にはザックを背負っているので大きな布製の筒を作り、その筒に竹を入れて、それを体の腹側に括り付け、片手で筒を抱えながらの歩行となり、とにかくそれが邪魔で歩きにくかったです。
そんな中、三匹穴という途中のポイントに向けて急斜面を登っている時に私はアイゼンの紐を踏んでしまい転倒し、その弾みでピッケルから手を離してしまいました。
私の体は東俣川に向かって滑り始め、どんどん加速するばかり、手元にピッケルが無い私は成す術なしの状態となっておりました。
同行者からも「あっ」と言う声が上がり、私も「まずい!万事休すだ!」と思った瞬間、シューッと音がした感じがして、どういう訳か私の体は斜面の途中で止まりました。
アイゼンが途中で少しだけ雪面にひっかかったようでしたが、それにしても不自然な止まり方だったように思い、不可解ではありましたが、その時はとにかく無事で、同行者と共にホッとしたことを覚えております。
この時も何か不思議な力を感じました。
④秋田駒ヶ岳大白森山荘にて
私が幼少の頃、父親の事業が軌道に乗るまで家庭は随分と貧困だった記憶があります。
当時住んでいた借家は雨漏りがするようなボロボロのあばら家で、夏は扇風機一つ無く、冬もストーブが無く囲炉裏だけで暖をとっておりましたし、食べるものもロクに無く随分とひもじい思いをしたことを覚えています。
そんな中、祖母はいくら貧乏でも身なりだけはキチンとしていなさいと言って、私はいつも服装だけは高級品を着せられておりました。
祖母は非常に厳格な人であり、孫の私にも随分と厳しい人で、怖い人でありましたが、その分愛情も深い人だったように思います。
そんな祖母もいつも高級な和服を着ていて、出かける時には履いていた下駄がいつもコツコツと小気味良い音を鳴らしていたことを覚えております。
そんな祖母が他界して随分と年月が経ったある山行時に、こんな事がありました。
ある年、新発田市の赤津山の雨量観測所巡視路の草刈を手伝っていた時、草刈機を担いだまま大きな石の上の乗ったところ、滑って尾てい骨を強打し、目から火が飛び出し、痛む尻をかばいながらやっとの思いで下山してきたことがありました。
数日間は座ることができないほどでしたが、それからしばらくして尻の痛みが癒えてきた私は東北へ向かい、秋田駒ヶ岳から岩手山の間を縦走しており、秋田駒の木道を歩いている時に足を滑らせて以前に赤津山で強打したのと同じ場所を再び強打してしまい、また目から火が飛び出しました。
尻の強打は二度目と言うことで、あまりの痛さに遭難するのではないかと思うほどでしたが、ホッテントットのように尻を突出してさらに内股だと何とか歩くことができたので、その日はみすぼらしい歩き姿で無事に大白森山荘へと辿り着きました。
山荘は2階建てで1階部分は土間になっていて、2階の床は板張りだったので私は2階でうつ伏せのまま一夜を過ごしました。
翌朝、明るくなり始めた頃、ウトウトしていると小屋の周りをコツコツと歩く音が聞こえ「おや、山では不釣り合いな珍しい足音だなあ」と思うのと同時にその足音にどこか懐かしさを覚えました。
やがてその足音は小屋の中に入ってきて1階の土間を通過し2階へ上がってきたのですが、途中から階段を降りたようで、その足音は外へと出て行ってしまいました。
遠い昔、どこかで聞き覚えのあるそのコツコツとした足音に、私は「はっ!」と思い、荷物を小屋に置いたまま慌てて足音を追いかけました、小屋を出ると大白森山の方に向かう樹林帯の中からコツコツとはっきりと音が聞こえてきます。
私は思わず「婆ちゃん!」と声を出し、赤く河豚のように腫れあがった尻の痛みを堪えながらホッテントット歩きのまま急いで足音のする方へ向かいましたが姿が見えません、しばらく追ってみたのですが残念ながら見つけることが出来ず、引き返してきました
私はおそらく祖母が心配して見に来てくれたのではないかと思いました。
そしてそれまでに経験した不思議な出来事のすべてが理解できました。
今まで遭難しかけた時に、何かに守られるように不思議な力が働いたのはきっと祖母が見守ってくれていたに違いありません。
私は心の中で「婆ちゃん、ありがとう」と呟きました。
それ以来、祖母に心配を掛けまいと私はいっそう安全登山を心がけるようになり、山を歩くときはかなり慎重になりました。