蒲萄山
平成28年1月23日
今年の正月に朝日連峰の長い林道を歩いて、疲労困憊になりながらようやく日暮沢小屋に着いた時に体力の衰えを痛切に感じました。
私自身まだ若いつもりでおりましたのでこのような年齢の話はしたくないのですがいい加減ある程度自覚しなければならないようで、私もとうとう過渡期に入ってきているようです。
しかし厳冬期の朝日連峰はこれから段階を積み上げていこうとしているわけですし大朝日岳登頂を果たした後も行きたいと思っているところはあるので、もうしばらく頑張らなければならないと思っている次第です。
閑話休題
そして正月が過ぎて朝日連峰登山から解放された私は少し休んだら今度は気軽に山に登ろうと考えておりました。
ただ、今は厳冬の期間ということもあって新潟県内の山々は入山が厳しく、だからといって遠くに遠征するのも年々億劫になってきております。
車の運転が面倒だし、それにそもそも長野や関東圏などの山々に行こうものなら人ばかりが多くて、山に来たのか街に来たのか分からなくなるほどです。
そんなこともありなかなか足が向かないというのが正直なところです。
それでは手軽に近くの里山あたりはどうかとなるとそれもまたどうも登る気がしないのです、特に雪のある時期はできるものなら登山道のないような普段は入りにくい山へ行きたいと思うのが正直なところです。
若い頃はどこの山に対しても興味津々で、遠かれ近かれ登っていて面白かったのに、今は本当に行きたいと思う山が限られてしまっております。
遠出を億劫と感じるなどは年齢からくる弊害なのでしょうし、山の好みが変わったことも含めて私は過渡期に入ってきているのではないかと思います。
そんな面倒な私には新潟県北部に位置するフルーツの香りが漂ってきそうな蒲萄山塊などが非常に重宝することになります。
蒲萄山塊は厳冬期でも比較的入山しやすいですし、海沿いに聳える山塊とは思えないほどブナ林がまるで深山の如く自生しており、それは飯豊や朝日のブナ林に匹敵するほどの美しさです。
主峰である新保岳以外は登山道がないので訪れる人は稀でとても静かな山域となっていて、厳冬期では数少ない楽しめるところだと思っております。
この蒲萄山は以前にも山行記録をこのHPで書いております。
前回では蒲萄に含まれるアントシアニンが目に良いということで、パソコンで疲れた目が癒えるかもしれないと思って登ったわけでしたが、やはり特に目に優しいといった山ではありませんでした。
しかし下山するとちょうど犬の散歩をしているお姉さんが通り過ぎて行き、そのお姉さんの後ろ姿はとても美しくて、目の保養になったといった類のことを書いたと思います。
ところが残念なことに戻ってきたお姉さんを正面から見てしまったところ再び目が悪くなってしまったようなことを書いたことも記憶しております。
確かあの時は会社をさぼって登ったので、下山してから会社の作業着に着替えようと登山用の作業着を脱いで寒空の下パンツ一枚になっていたところにお姉さんが通りかかったものですから、随分と笑われたことを憶えています。
そういえばあれからいろいろ考えたのですが、関東圏や北アルプス方面など人の多い山に行くと多く見られる山ガール(最近は少なくなっているようですが)、後姿は若いピチピチの女の子なのに前から見たら度肝を抜かれてしまった、などといったことが多々あります。
まあ山でしかできない服装なのかもしれないですが、ちょっと考えてほしいと思うのは私だけでしょうか?
山ガールが前を歩いているとそのカラフルで可愛らしい服装の後ろ姿にまんまと騙され、追い越しざまに何気なく正面から顔を見てしまったら気絶しそうになることが今までたびたびありました。
また余計なことを書いてしまいすいません、話を元に戻します。
この蒲萄山は二度目の報告となるうえ、さらに辿った尾根も前回と同じところでした。
そんなこともあって尾根やルートに関しては簡単な説明に留めておこうと思います。
入山場所は国道7号線朝日トンネル手前から県道に入り寒川方面に少し向かったあたりから尾根に取付きました。
この尾根は人が入った形跡がまったく見られないところで、また頂陵部以外はほとんどが笹薮と背の低い灌木で埋め尽くされていて藪が大変にうるさいところです。
そのうえ今回は深いラッセルとなっていて大変に苦労して山頂に至りました。
ところが山頂付近には管理道路が走っていて、せっかく苦労して山頂に立っても忽然と現れる広い車道が目に入り、とてもがっかりしてしまいます。
日本海側の今川集落から伸びるこの車道はおそらく蒲萄スキー場の管理道路と思われますが距離は随分とあり、雪が解けても車がここまで入ることができるのかは定かでありません。
蒲萄山は玄人好みの秘境ということで、登ったことがあるという人は結構居られるようですが、登られた人の多くはやはり一番簡単で手軽に短時間で登れるスキー場からのルートを辿っているようです。
前回の山行報告では蒲萄は武道の当て字であり、近くにある矢作神社が山名の由来であるといったことを記述しました。
それら由来や歴史についてもっと深く掘り下げて調べてみたところ、例によって諸説は紛々なのですが、これがまた実に面白く非常に興味深いことが多く分かりました。
まず漢字について、ここの地名は葡萄ではなく蒲萄となっていて、どちらも同じ意味で果物のブドウを指すということです。
しかし蒲とは湿地帯に自生する植物のことを言い、湿地帯の多い新潟県は特に北部では蒲原といった湿地帯を意味する地名が有り、これが関係しているのではないかと思います。
また古い地形語で中が空洞になっている地形や状態を示す「うと」といった言葉があるそうですが、それがブドウの語源になぅているといったことも考えられるそうです。
それでは前述した矢作神社についてですが、越後野誌によると源義家が後三年の役を終えて出羽から戻る途中に屋根が壊れた神社を見て、戦で使わなかった残りの矢を使って修理したことから矢作神社と呼ぶようになり、そこから武道とこの地は命名され、いつの間にか蒲萄の字があてられたとされております。
しかし他の文献には夜深明神、やふけノ明神、やぶけ明神などといった記述になっているそうで、古い地形語でヤは岩の転記で、フケやフキは崖をあらわすのだそうです。
橘南渓の「東遊記」では1786年に蒲萄山を訪れた時のことが書かれており、その記述によると山頂は二つの岩山からなりその片方には大きな岩屋があって、岩屋の中には祠があるといったことが書かれております。
さらにこの矢作神社は実は漆山神社と言い、小さな社殿ではあるが延喜式内社といって、よく分かりませんがとにかく非常に格式の高い神社なのだそうです。
漆と言えば地元村上市には漆朱といった伝統工芸があり、今日でも工芸細工が盛んなようです。
漆は昔から人との生活に深くかかわっていて日本各地の出土品に漆細工を施したものも多くあります。
そんなことから矢吹神社(漆山神社)には漆細工の神様が祀られているのではないでしょうか。
他にも蒲萄山は古い文献にも多く登場していて、越後山系の中でも主要な山だったようです。
前述したように橘南渓の東遊記では「葡萄嶺雪に歩す」といったタイトルで1786年(天明6年)3月18日に蒲萄山に登ったことが書かれていて、これは高頭仁平衛の日本山嶽誌にも書かれており、私はこの記述を興味深く読んでみました。
しかし江戸時代の古文で書かれているので理解するのが難しく、間違っているかも知れませんが私なりに解読してみたところでは「腰までもある雪に苦労し、道は目印こそあるものの道筋は分からなくなり折々は雪を踏み抜いて川に落ちるなどして日暮にようやく葡萄峠に辿り着くも塩野町に立ち寄った時に老婆に今日は塩野町に泊まって早朝の雪が固いうちに出るよう勧められたが断ってしまったことを後悔する」としております。
ここで「ぶどう峠を北地第一の雪どころでいかなる難所である」としています。
その後も「雪崩や滑落を恐れながら進んだ、山頂は二つの岩山からなり、その岩屋に祀られていたものを拝んだ」とされています。
さらに「山頂から東南は月山の山脈、大鳥の界隈、旭嶽・置賜の遠山迄一眼に見わたし四南は上みに越後伊夜彦・角田の二山をはじめ、近くは葡萄、寒川、大谷川の山々、佐渡・粟島の海面を見はらし、北は鳥海山まで遮るものがない」といったことが書かれております。
また、蒲萄峠に関して「羽、越の界にて山の間甚雪中のみならず、四時とも旅人の難儀する所なり、この峠は強盗多く、旅人あまた殺害し、今も往来の人恐るる所なり」と書かれておりました。
また越後野誌では蒲萄山について「麓の村を蒲萄と名づく、因て山名とす」と書かれております。
さらに「山頂は西嶽と南嶽があり、大日如来を祀る」とされております。
蒲萄峠については「名だたる難路で崖が突出しており崖下には小洞穴あり、傍らに小祠あり、祭神を矢武岐明神とす」と書かれておりました。
また「山中鈆を産す」とも書かれており、鈆とは鉛のことをいうのだそうで、鉱物資源が貴重だった当時は鉱物採取も行われていたと思われます。
これらのことから今となっては登山道もなくひっそりと日本海を見下ろす様に聳える蒲萄山に訪れる人は蒲萄スキー場に来る人ばかりとなりましたが、以前は地元の人たちに信仰され崇められていた山なのではないかと思います。
ごく一部の登山者以外にはまったく目を向けられなくなってしまった蒲萄山ですが、こんな知名度のほとんどない静かな山でもいろいろと調べてみると多くの歴史が埋もれており、古を偲びながら山に訪れることもまた楽しいとつくづく感じさせられ、小さな山塊ですが冬山の楽しみとしてしばらくはこの葡萄山塊に通うことになりそうです。