真冬の飯豊
平成26年12月26日~29日
ある夏の暑い夜、いつものように布団で寝ていると、時刻はちょうど丑三つ時、胸の辺りに息苦しさを感じて目が覚めた。
体の上に何か大きな黒い物がいる。
重くて身動きができず、恐怖のあまり失神しそうになる。
しばらくじっと我慢していると、やがてその黒い物体は「にゃあ」と鳴いてもそもそと動き始めた。
良く見るとそれは近所の黒猫で、勝手に私の家に入り込んで布団の上で寝ていたのである。
それ以来、玄関の鍵を開けっ放しで寝ていると自分で戸をあけて入ってきては私の布団の上で寝ているようでした。
近所の人の話によれば、その黒猫は現在私が住んでいる借家の前に住んでいた人が飼っていた猫だったのだが、引越しをするときに捨てられていったのだそうです。
それから向かいの家の人が引き継いで飼っていたということでしたが、私の家に入ってくるのはやはり元の自分の家へ帰りたがるのではないかということです。
やがてその黒猫は私にすっかりなついてしまい、いつの間にかまるで私が飼い主のようになっておりました。
あれから10年程がたち、思えばその黒猫は私と共に生活していたように思います。
年齢はかなりの高齢猫になってきていて、おそらく人の年齢だと100歳くらいになっているものと思われ、足腰や歯などが弱くなり病気にもなりがちになっているようでした。
そしてとうとう耳から出血が止まらなくなるといった難病にかかってしまい、日に日に元気が無くなっていき、動物病院に連れて行くなどして必死に介護するが一向に回復の兆しが見えない。
余談ですが、猫は元々私が飼っているわけではないので保険証がありません、その猫は当然私の扶養にはいっていなくて、また国民健康保険に加入しているのかも分かりません、あるいはひょっとすると社会保険に加入しているかもしれません、それらはすべて分からない状態であり、いずれにしても医療費全額負担だとかなり高額になってしまいます。
病気が治ったらでっちぼうこうにでもでてもらわなければならないと思っているところです。
猫がどんどん衰弱していく中、私は私で正月の飯豊のことで頭がいっぱいになっていて猫のことばかりかまっていられなくなっている時期となっており、そのころ黒猫はほぼ寝たきり老人のような状況になっていて、真剣に葬儀場を考えるくらいにまでなっておりました。
話は変わり
秋が深まり正月の飯豊山行に向けてトレーニングも激しさを増す頃、私の妹の長男、いわゆる甥っ子が白血病で緊急入院することになった。
1年ほどの入院期間が必要であると医者には言われ「それで治るのか?」と聞くと「分からない、五分五分」とのことでした。
その日から私の妹と私の母親は24時間交代で付きっ切りの看病が始まりました。
こんな時、男手ではなんの役にも立たないもので、できることといえばせいぜいガンセンターまでの送り迎え程度のものでした。
そんな折、飯豊山行の前日に今年も飯豊に登るということを言うために実家を訪れると、孫の看病ですっかり憔悴しきった私の母親が「とても辛い、変わってやりたい」と言っていた。
私はそんな母親の姿をみて、とても冬山に登るなんて言えなかった。
これ以上、親の苦しむ姿は見たくない「確実に安全に飯豊から帰ってこよう」そう思い、私は無言のまま実家を離れました。
この時期の北俣岳には今まで何度も挑戦してきました。
日本海気候の影響をもろに受ける冬期飯豊は日本一悪条件の山であろうと思われます。
特に西俣ルートから北俣岳を目指す場合、ここは飯豊の北部であり連峰中でも気象条件がいっそう悪条件であるということと山腹に避難小屋がないうえ長い稜線歩きがあり、そんなことから随分と困難なルートとなっているものと思います。
中腹までは胸までの猛烈なラッセルに苦しみ、それ以降は猛烈な強風と激しい積雪あるいは自分の足が見えないほどの深く濃いガスに阻まれ、幾度挑戦しても敗退敗退を繰り返しておりました。
しかし私は3年前とうとう北俣岳の登頂に成功しました。
その日は冬の飯豊では珍しく晴れ間がのぞき、千載一遇のチャンスに私は無我夢中でベースキャンプから北俣岳を目指し、そして登頂することができたのです。
ただ策略も何も無い、とにかく必死で歩いて登頂できたということ以外はなにもない成功劇だったであろうと思います。
下山して以降「次は朝日連峰に向かおうか」などと考えておりました。
しかしこの西俣ルート、無事に目的を果たすことができたものの何か釈然としない思いが心のどこかにはありました。
「納得するまでとにかく徹底的にやろう」そう考えて、もう一度北俣岳を目指すことにし、再びその翌年から西俣ルートからの単独挑戦が始まりました。
それ以降もまた西俣道は棘の道となり随分と苦しみました。
降り積もる雪でテントが押しつぶされないよう三日三晩眠らずテントの除雪をし続けたときもありました。
あまりの強風とホワイトアウトで無事に帰れるのか心配になったときもありました。
そして今年は12月だというのに記録的な大雪に見舞われ飯豊への道のりはいっそうの困難を強いられることは必至でありました。
12月に入るとすぐに寒波が次から次へと押し寄せ、積雪は増していくばかり。
十文字池とベースキャンプとなる大ドミに荷上げをしたものの、この大雪では見つけられないかもしれません。
直前にカップラーメンリフィルを買い込み、最悪でも一日三食は何とか食べられる食料、さらにガスボンベは当初の予備用としての小さいものから通常の大きいものに変え、さらにパッキング予定になかったロールペーパー、予備電池などもザックに詰め込みました。
飲み物はお茶のティーバッグが一日一個、何度も薄めて飲んで色が付いている程度でも飲めれば良しという考えで持ちました、もちろんアルコールはなしです。
荷上げ品が見つかれば少しは贅沢ができますが、最悪を考えてこのような準備をしました。
それからもう一つ大きな不安材料が私にはありました。
例年、10月頃から正月山行に向けてトレーニングを積んでおり、特に今年はいつも以上に励んでおりました。
苦しいトレーニングを積み重ねることにより、その時に苦労した分、きっと山行時は楽になるであろうと信じてやっているのですが、今年はどうにもコンディションが上がらない。
トレーニングの合間に近くの里山に登ってみたりするのですが、力が湧いてこないというか、とにかく足腰が疲労しやすく体力的にもいまいちの状態のままで、とうとう飯豊に臨む日を迎えてしまいました。
12月26日
今年はサポートが一人もいないので、出発時間は自由です。
やはりそう思うと少し寝坊してしまうもので、4時に家を出る予定が6時近くの出発となってしまいました。
黒猫と共に家の玄関を出る。
家の脇の物置小屋に毛布を敷きつめ、そこに黒猫を置いて「ここで待っていろ、生きているんだぞ、お互いにな」そう言って出発しました。
前述したように、例年ですと何人かのサポートがくるものの今年の場合は誰も来てくれません。
それもそのはず、天候をみて決めるという理由で出発日を直前まで決めなかったことと、27日以降に出発すると言っていたところを急に平日の26日出発に変えたものですから、天気と私の都合にあわせて日程をころころ変えられたものではたまったものではないでしょう。
もちろん大変に苦しいラッセルになることは間違いありません。
ただでさえ荷上げ品が見つからないことを想定して荷物も重さを増しているというのに・・・。
サポートの人たちがいるということはいろんな意味で大変に助かりますし、とても有難いことで、来て頂けるのであれば大歓迎です。
ただサポートをあてにするような山行はしたくないと思っておりましたし、サポートの方たちの意見というものも少しではありますが行動に反映されてしまいます。
あくまでも単独と言うことが本望であり、他の人に左右される登り方はせずに自分自身の考え方、登り方を貫きたいと思っておりました。
今回は多くの方々から激励の言葉を頂戴しており、それだけで私にとっては十分なサポートであり、とても暖かく有難く感じておりました。
行きの車の中では故高倉建氏の追悼ということで映画八甲田の「白い地獄」という曲が流れております。
悲壮感漂うそのメロディーは何とも恐ろしいというか今日の門出に相応しくもあり、私の今の心境に見事にマッチングした音楽にのって今回の飯豊山行は幕を開けたのです。
登山口である奥川入荘に着き、挨拶も早々にすぐに出発。
出だしの畦道を歩いていると、やはり例年以上に雪が深く、この先が思いやられる。
最善の努力はしてみるがなるようにしかならない、このラッセル地獄に今日はどこまで行けるか分からないが、ただただ一生懸命に進むしかありませんでした。
幸いにも大雪のせいであの登りにくい岩場はすっかり隠れていて、そこだけは比較的スムーズに通過することが出来ました。
大曲を越えると風当たりが強くなり、ラッセルは相変わらず深いまま。
見上げると十文字池が見えるが、なかなか近づいてきません。
「今日は十文字池で終わりかな、だとすると今回の山行は北俣までは行けないかもしれないな」疲れと寒さで弱気な言葉を吐いてしまう。
気を取り直し「いや、今日は何とか西俣峰まで行くぞ」そう思い直し、ゆっくりではありましたが休まずにラッセルをひたすら続けました。
やがて十文字池を過ぎたころ、はるか前方の木の枝に不自然に取り付けられた赤い標識が見えておりました。
そして近づくにつれ標識の下に雪で半分埋もれた荷上げ品が目に飛び込んできました。
私は荷上げ品の下に駆け寄り一息つきました。
「これでほんの少しですが贅沢ができる」、十文字池の荷上げ品が回収できたことにより僅かですが食料や燃料に余裕ができ、それが精神的な余裕にもつながっていきます。
アルコールといった贅沢品はありませんが、食べ物や燃料これでは十分になりました。
荷上げ品を回収してザックに収めたところで時刻はまだ昼を過ぎたばかりです。
まだまだ行動停止するには早すぎる、私の足は再びラッセルを始めました。
それにしても行けども行けども深い雪にもがき、標高があがるにつれて風は強まるばかり。
目指す西俣峰は遥か彼方、激しく雪煙を上げている。
どこまでも続くラッセルに辟易し何度も諦めかけた。
しかし体そして足腰は動き、疲労も寒さも感じない。
この極限状況のなかで何かが私を前に前にと推し進めてくれる不思議な力を感じながら進んだ。
「黒猫は大丈夫だろうか、あるいは甥っ子は?」私の脳裏に不吉な思いが走った。
やがて猛吹雪の中、西俣峰の標識が目の前に現れた、今日はここで行動停止。
時刻も3時半を過ぎている、日暮前にはテントの設営を終わらせたい。
しかし西俣峰は強風が舞っており、とてもテントを張れそうなところがない。
仕方がないのですが少し戻って大きな木の根元に僅か平場があるのでそこを整地してテントを設営しました。
夜は2回ほど除雪に起きました、風は19時くらいから静かになりテントが風に煽られることはなくなりました。
もちろんあまり良く眠れるものではありませんが、こんな夜なら御の字です。
安心して寝袋に包まり一晩を過ごすことが出来ました。
ただ凄い湿気でダウンジャケットがすぐにぐちゃぐちゃになってしまいました。
去年も反省点に挙げていたのに、それがまったく活かされておりませんでした。
12月27日
何か不思議な力に導かれるように悪条件の中、西俣峰まで辿り着いた私は余裕の朝を迎えておりました。
今日は大ドミまで行けば良い、そのうえもし大ドミの荷上げ品が出てこなくてもまったく心配ないのです。
それからこの風と寒さで西俣峰から先は足元が凍っていてラッセルは浅くなるのではと思っておりました。
ところが、確かに西俣峰の山頂付近は凍り付いていてラッセルはありませんでしたがそれはほんの僅かな区間であり、すぐに深い雪との格闘が始まるのでした。
しかも風が強くなり視界も不良の中を進まなければなりません。
それにしても本当に今年は積雪が多い、こんなに積雪が多いのは初めてです、それに気温も低い。
斜面は変な雪の付き方をしていたり、変にクラストしていたりでとても歩きにくく、大変に苦労して大ドミに着きました。
案の定、荷上げ品はすっぽり雪で埋もれていてどこだかさっぱり分かりません。
荷上げ品が埋まっているというよりも、大ドミの木々がすっかり雪の下になっている状態だったので探す気にもなれませんでした。
しかし概ね場所は分かりました、毎年同じ木に括り付けて、その木の枝を探して同じ場所を掘り返して探し当てているのですから、たとえ木が埋もれていたとしても景色などから何となく場所は分かりました。
でももし荷上げ品が発掘できた場合、下山する時に持って帰りたくなるのであえて探すことはやめました。
なにしろ今年の荷上げ品は一斗缶二つなのですから。
今日は午後から天気が良くなるということでしたが、やはり山はそうはいかないようで大ドミは猛烈な吹雪となっておりました。
吹雪にさらされながらテント場を整地して防風ブロックを積み上げていると雲が切れ、隙間から青空がのぞき始めました。
いつしか雪は止み、最初は小さかった青空も徐々に大きくなっていき、遥か彼方に飯豊本山が顔を出し始めます。
テントの設営が終わる頃には風も止み、これからの晴天を約束する空へと変わっていくのが分かります。「明日はきっと終日素晴らしい天気になるだろう」、「稜線の風はおさまるのだろうか?」、「北俣岳までの長丁場、果たして完登できるだろうか?」私の心は期待と不安でいっぱいでした、ここまでの大ラッセルで体も随分と疲弊している。
「ようやく飯豊の首根っこまでやってこれたのだから、あとは悔いの無いように精一杯頑張ること、それからせっかく山に遊びに来たのだから楽しむことも忘れずに行こう!」
そう考えるようにして寝袋に入りました。
それにしてもこの日の夜は冷えました。
テント内だというのに未開封のペッボトルは凍り付き、みかんは石のようになっている。
今まで除雪や強風で眠れないということはありましたが、寒さで眠れないといったことは初めてのことでした。
12月28日
いよいよ勝負の日です。
寒さで眠れず4時には寝袋から這い出しコンロに火を着けて暖を取りました。
テントから顔を出すと凛とした寒さ、張りつめた空気と澄み渡った空に輝くたくさんの星。
逸る気持ちを押さえながら最後のカップラーメンリフィルにお湯を注いだ。
準備は昨日のうちに済ませてある、あとは目が効くくらいの明るさになったら出発するだけでした。
薄暗い中スノーシューに足を通し終え、まずは頼母木山までの登りがスタートしました。
飯豊本山辺りのオレンジ色が徐々に濃さを増していき、三匹穴を越え頼母木平あたりで太陽が顔を出し始める。
辺り一面のしゅかぶらはオレンジ色に染まり、まだ雲がかかっているエブリ差岳もモルゲンルートに輝いており大変に素晴らしい景色でしたが北俣岳までの道のりを思うと落ち着かず、ゆっくりと朝の景色を楽しむことはできませんでした。
最初から飛ばしてしまうと必ずあとでバテてしまう、分かってはいるのだがついつい急ぎ足になってしまいます。
まだ頼母木山頂あたりはガスがかかっています、急いでも仕方がない、ゆっくり歩くよう、そして楽しむよう心掛けました。
案の定、偽頼母木まで来ると濃い霧となっており方向がまったく分からなくなりました。
コンパスで方向を確認して進み、まずは最初の目標である頼母木山に登頂しました。
心配していた風はそれほどでもなくよろめきながらも何とか普通に立っていることができる程度です。
しかし濃いガスに覆われた稜線の視界は10mから20m程度しかありません、そんな状況でしたが地神山へ続く登山道が薄らと確認できます。
見上げると白くて濃いガスの先に空の青さが見え隠れしています。
ガスはもうすぐ晴れるであろう「よし、行こう!」そう言って私は登山道に沿って頼母木山を下りはじめました。
やがて頼母木山を下りきる頃、眼前に大きな地神山が見え始めたと思うと凄い勢いでガスが流れ始め、まるで生きているかのように雲が動き、あっという間に風景が一変しました。
厳しい季節の中にようやく訪れた優しい陽射し、私は劇的な天気の変化を稜線上で目の当たりにすることができました。
冬の青空はどこまでも澄み、これからはとても貴重な時間です。
なかなか出会うことができない厳冬の飯豊の稜線が遠く望めるようになりました。
しかし氷と雪に鎖された稜線は歩きにくいもので、特に地神北峰への登りは大変に苦労させられました。
氷で覆われた登山道を歩くと踏み抜いてしまいとても歩くことができず、凍ったハイ松に足の置場を求めるのですが、これまた踏み抜きがあり酷い時は腰まで踏み抜く始末です。
昨日までのラッセルで足腰はかなり疲弊していたところにこの歩きにくい稜線で疲れは限界に達しておりましたが何とかやっとの思いで地神山に辿り着きました。
地神山を越えると幾分風が弱まります、これは以前に歩いた時と同じです。
稜線も広がりなだらかな雪原上を歩くことができるようになりました。
地神山から扇の地神を通過し門内小屋まで続く雪上スカイラインは厳しさの中にも心休まるところでありました。
山形県側には雪庇が張り出していると思われるので、できるだけ新潟県側を歩くようにしながら門内小屋に着き、ここで少し休憩。
門内小屋の風を凌げるところでザックを置くと、体が動かなくなりました。
雪の上に倒れ込んだまま「このまま戻ろうか?」そんな思いがよぎります。
手の指先と耳と頬と鼻は冷たさで痛み、疲れ切った体と激しく痛む足はもう言うことがきかなくなってきました。
しかしここで帰ったら後々大きな悔いとしていつまでも自分の心に残るであろう。
「頑張ろう!」そう自分に言い聞かせて吹き溜まりの門内山頂を越えてギルダ原に降り立ちました。
ギルダ原からは再び風が強まり、時折耐風姿勢を取りながら前へ進むようになります。
しかも最低鞍部まではまたも踏み抜きだらけで歩きにくくて仕方がありませんでした。
目の前に迫ってきた北俣岳は盛期の頃に見るときより一際大きく高く立派です。
最後の長い登りを目の前にしてまたしても足が動かなくなる。
「燃え尽きよう!悔いの残らないよう!」。
意を決して斜面を登り始めるが北俣岳山頂は歩けど歩けど近づかない。
山形県側の歩きやすい斜面を利用して何とか前に進もうとするが、思うように足が前に出ない。
何度も転んだ、転んだら起き上がることが辛かった。
山頂到着のリミットは11時30分と決めていた、しかし間に合いそうもない。
北俣山頂の標柱は目の前にあるのだがそれが遠く、近づくことが困難になってきた。
山頂にもうすぐ手が届くところまで来ていた、しかしいつもなら軽々越えられる程度の段差を通過できず、強風と疲労でもう動くことができない。
ここはこのルートの最大の難所であり、思えば前回の時もこの最後の登りにはとても苦労しました。
私は前回の時と同様に今までの辛かったトレーニングの日々を思い出した、それから厳冬期の飯豊に臨むことで恐怖のあまり悪夢にうなされノイローゼにまで陥り、苦悩にさらされ続けた日々のことも。
いつもの登山においてもわざとできるだけ重荷を背負うようにしていたこと、いつも悪いところを歩くように心がけ、自分に負担をかけるようにし、常に厳しい環境下に自分を置くことを心掛けました。
時には登山を楽しめることができなくなったことすらありました、それもこれもすべて今日この時のためです。
それらにすべて耐え抜いてここまで来たというのに、諦めるわけにはいきません。
今は集大成の時、「何としても北俣山頂を踏まなければ!」ここを登りきればすべてが終わるのです、私は最後の力を振り絞って必死で最後の急登に足を踏み込みました。
そしてついに夢にまで見た北俣岳山頂にようやく登頂、時刻は11時35分でした。
山頂では前回、カメラの不調で撮影できなかった写真を撮りながら10分ほどいました。
それから梅花皮小屋方向を見てみようと試みましたが小屋方向には大きな雪庇が張り出していて近づくことができませんでした。
帰りは下りがほとんどですし、楽しむことに切り替えました。
体はボロボロでしたが楽しみました。
どんなに山好きな人でも、どれほどの人がこの景色を見ることができるのだろうか?
凍てついた大地から張り出しているおびただしいエビの尻尾。
大きくうねりながら風紋が形成されたしゅかぶらは尋常な大きさではありません。
厳しい環境にあるところだからこそ美しい景色、驚異的な景色が作られるのだと思います。
今日はとても穏やかな日でしたがそれでも怖いほどまでに感じる氷の世界は前に訪れた時にも書きましたが、やはりそこは美しい死の世界でした。
ここはこの世に生を受けた者がいてはいけないところ。
まるで地獄の果ての天国といった例えが適切なのかは分かりませんが、私の目には美しい地獄の果てように写りました。
再び訪れることができた厳冬の北俣岳と飯豊の稜線の峰々、もう一度この目にその景色をしっかりと焼き付け、そしてバッテリーを5個持参したお蔭でカメラにもしっかりと景色を納めることができ、やや茜色がかかりはじめた西の空を背にしながらベースキャンプへと戻りました。
11月29日
夜中にテントを叩く雪の音で目が覚めました。
時刻はまだ夜中の2時、今日は天気が崩れるということでしたが、早くも降ってきているようです。
昨日、無事に目的は果たせたものの下山するまでは浮かれるわけにはいきません。
予定より少し早めに起き、最後の朝食を済ませると早々に帰り支度を始めます。
テントから出ると大粒の雪がもさもさと降っています。
視界も非常に悪く慎重に帰らなければなりません。
しかし昨日は豊栄山岳会の方々が枯松峰まで来ていたとのことでしたし、宇都宮山岳会のトレースも重なり、はっきりとルートの工作が出来ている状況で、途中下りながら「つまらないなー」なんて思いながら悠々登山口の奥川入荘まで下山することが出来ました。
そして奥川入荘で風呂と昼食を頂いてから、小国の高橋さん宅に寄って下山の報告を済ませてから無事、家に帰りました。
そういえば今回の正月は下界で過ごすことになる「何年ぶりだろう、紅白なんて10年以上見てない」。
家に着くとドッと疲れが出て一気に眠気が差してきました、この三日間ろくに寝ていません。
「車から荷物を降ろしたら少し眠ろう」そう思って玄関を開けた瞬間、私の目の前に黒い物体が飛び込んできました。
あの寝たきりだった黒い猫が私の姿を見て走ってきたのです。
「生きていた、よかったー!」
翌日はテントを干そうと実家に行きました。
山に行ったことがばれないようにこそこそと倉庫でテントを干していると急に後ろから「薬で治るってさ」と母親が笑いながら話し掛けてきました。
「よかったねえ」と私が言うと「ところでなんだそのテントは?」、「まさかおめえ山に行ってきたんじゃねえだろうな」と言われました。
私は何も答えず早々に家から離れました。
いずれまた実家にはテントを回収しにいかなければなりません、これは荷上げ品回収よりも難しくなりそうです。
そうそう、ところであの黒猫は正月の間に一生懸命飲ませた薬が効いたのか今ではすっかり元気になっています。
これが人間だったらでっちぼうこうならぬバイトでもさせて医療費を返してもらうところです。
最後に、タイトルを正月の飯豊ではなく真冬の飯豊にしたのは、正月期間の山行ではないからです。
また、12月ということもあり、あえて厳冬期の飯豊ともしませんでした。
ただし今年の12月は厳冬期以上に厳しい気候だったものと思います。
コースタイム
12月26日
7時50分奥川入荘 10時10分大曲 11時40分十文字池 11時56分~12時30分荷上げ場所 15時35分西俣峰
12月27日
9時05分西俣峰 13時00分大ドミ(BC)
12月28日
6時30分大ドミ(BC) 8時15分頼母木山 10時15分門内小屋 11時35分~45分北俣岳 12時35分~45分門内小屋 14時00分頼母木山 16時00分大ドミ(BC)
12月29日
7時40分大ドミ(BC) 8時48分西俣峰 9時30分十文字池 9時53分~10時05分大曲 10時40分奥川入荘