飯豊山小屋修繕記その1
くさいぐら尾根~頼母木小屋~西俣下山
5月18日~19日
今年は、来年から消費税が上がるかもしれないという影響からか、本業がかなり忙しくなってしまい登山日記をひとつ書くにも時間に余裕が無く、随分と苦戦しているような有様です。
どうしてこんなに簡単に仕事が転がり込んでくるのだろう?今までの冷え切った景気からは考えられないことです。
これについて私としては非常に不本意なことでありまして、平日はゆっくり山行日記でも書きながら山のことを考えたり、山行の計画や準備をするようにしていたいですし、休日はもちろん山に登りたいわけであります。
仕事はたまにあるという程度が丁度いいですねえ。
さらにそれに加えて山小屋修理関係の仕事が今年はピークを迎えそうです。
仕事で山に登れることはありがたことですが、やはりせわしいものです。
しかも下界での仕事も忙しいものですから飯豊の御西小屋で工事をする時など泊まり込みではなく、例えば午前中は下界で普通に仕事をし、午後から御西小屋で作業をするといったように、毎日通わなければならないのではと心配している次第です。
でもどう頑張っても御西小屋まで登りで4時間や5時間くらいはかかりますしねー、「うーん、どうしましょう!」
山小屋修繕に関してですが、新潟県民なら皆さんなら御存知のことでしょうけれど、新潟県は横に長い県で、上越、中越、下越に区切られ、それぞれの地区にそれぞれ素晴らしい山々が聳えております。
そしてそれら山々には各所に山小屋が備えられており、そのほとんどは新潟県所有の無人避難小屋となっているようです。
そしてそれら新潟県所有の避難小屋は地元の市町村自治体が借りて、管理運営しているケースがほとんどのようです。
山小屋は非常に劣悪な立地条件にあり、傷みも異常なほど激しいものです。
確かに私自身、何度も厳冬期の飯豊に挑戦しておりますが、あの凄まじい風雪はそこにあるものすべてを凍らせ破壊してしまうのではと思うくらいのものでありますし、ある日は台風直撃時に小屋内で停滞していた時のあの風の凄さと言ったら厳冬期の強風を遥かに凌ぐほどの恐ろしいものでした。
そんな悪条件の中でよくもまあちゃんと建っているものだと、逆に不思議に思ってしまうほどです。
過ぎ行く季節の自然現象に耐え続け無事に建っている山小屋ですが、尋常でない雨風と厳冬期の異常凍結等により数年もするとボロボロの状態になってしまいます。
そんなことから各地域の山小屋を借りている自治体から所有者である新潟県には修理の陳情要求が絶え間なく挙がっているのが現状のようです。
しかし、簡単に行くことができず、資機材の運搬もままならないところにあるのですから、修理費用は嵩んでしまい、さらに修理に訪れてくれる職人さん確保も至難であり、一度壊れれば修理することは大変に困難なこととなっております。
登山人口が増えた昨今でありますが、それは高齢者が中心であり、山まで行って作業をしてくれる働き盛りの職人さんを見つけるのには私自身も四苦八苦しているところであります。
新潟県としても、広範囲にたくさん所有している山小屋が、それぞれ激しい傷みに堪えながらなんとか使われている状況の中で、修理費用を捻出しようと奔走しているような状況のようです。
県の人からは「ここ近年は飯豊の山小屋に随分と修理費を投じているので来年からしばらくは修理しませんよ。」と一昨年も去年も言われました。
しかし毎回、そう言いながらも切実に修理を訴える自治体が絶えずあり、今回でしばらくありませんといいながら、飯豊のどこかしらの小屋を修理しているような状況のようであります。
今年、まず破損が報告されたのは門内小屋の窓ガラスと頼母木小屋の外壁の剥がれでした。
借り受けている胎内市が新潟県に修理を依頼すると、新潟県から私のところに修理依頼がまわってきます。
この飯豊の北部に建設されている二つの小屋は築年数が一番古く、特に老朽化が進んでいる小屋であります。
修理にはいきなり向かうわけにはいきません。忘れ物をしたらとんでもないことになります、事前に現地を把握し、必要な機材や資材を計画してからでなければならないのです。
そのために改めて一度、現地に訪れてよく見て、そして必要な資機材を勘案してから再度、本格修理のために職人さんを連れて行くといった工程となります。
今回はその門内小屋と頼母木小屋を視察する計画をたてました。
ただし門内小屋に関しては窓ガラスを修理すればいいだけの簡単なもので、視察ついでに窓枠を外して持ち帰り、ガラスをはめて頼母木小屋本格修理の時に持って登る予定でおりました。
日程はいつにするか普段の仕事の合間にしか行くことができず、時間が長く過ぎてしまい、そうこうするうちに善意ある有志の方たちによって門内小屋の内部に溜まった雪は排除され、窓が修理されて小屋はまた元の姿へと戻りました。
私としては一つの仕事が減ったということになり、お蔭で頼母木小屋の修理だけに専念できる運びとなりました。
とにかく視察に行かなければ作業には取り掛かれません、天気はしばらく良さそうなので5月18日に頼母木小屋の視察を設定しました。
しかし18日は土曜日ですし、どうせなら一泊で行くことにしました。
ルートはどうしようか、あれこれ迷い4月にイリ平尾根を登っているので、今度はデト平尾根を考えてみましたが、おそらくもう渡渉は川の中を歩くことになるだろうし、藪も随分出ているのではないかと思われます。
連休に下越の坂場さんがイリ平を登っているので渡渉点の状況を聞いてから判断してみようと思い、坂場さんに電話すると坂場さんは「くさいぐらにすればいいのでは」と言う。さらに「まだ雪は十分にある、石つぶては雪渓だよ」と言う。
くさいぐらと言えば距離こそ短いが、立派な飯豊のバリエーションルートです、飯豊の難しさをギュッと濃縮したようなイメージのある尾根であって、簡単に登れるようなところではありません。
しかし慣れとは恐ろしいもので、私自身くさいぐらは2回ほど登っているものですから「そうですか、じゃあくさいぐらでも行ってみましょう」と気軽に答えてしまったのでした。
5月18日
まだゲートが開放されていない車道を、梅花皮荘裏手の吊り橋を渡って飯豊山荘に向かい歩き始めました。
それにしてもいつもくさいぐらを登るときは痔が発症する「何故だろう?」
前回と同じようにガニ股で車道を進みます。
しかし何だかいつもの元気が出ない、車道ならいつも走って通過するのですが走ることができない。走れないのは痔が原因ではない。
いつもはどんなに痔が痛かろうが何度も転びそうになりながらもしっかりガニ股で走ります。
先日、冬靴を仕舞って久しぶりにスリーシーズンの靴を出してきた、どうやら足が夏靴にフィットせず、痛いのが原因のようです、慣れるには少々の時間が必要のようでした。
温身平から石転び沢へ入り石つぶてから雪渓上へと降り立つとすぐに向かい側の尾根に取り付きます。
実は私自身、くさいぐらは三回目ですが石つぶてから登るのは初めてで、いつもくさいぐら尾根末端から登っておりました。
予測通り尾根はすっかり藪が出ていて脇の雪渓を登って1088m峰に出ましたが、どうせこの峰までは立派な登山道並みの踏み跡が付いているので、やはりくさいぐら末端から取付いた方が効率は良さそうです。
くさいぐらはほとんどが痩せ気味な尾根で、ほとんどの雪は落ちていて藪漕ぎ主体の山行になるということは覚悟の上で訪れたのですが、分かっていてもやはりだんだんと藪に嫌気がさしてきて「どうして頼母木小屋へ行くのにくさいぐら登ってるんだろう?」とか「わざわざこんな藪漕いで、俺って馬鹿だよな」とか考え、愚痴を言いながら進むようになってきました。
以前に2回歩いていると不安などまったく無い代わりに、面白さも半分以下になります。先の状況は容易に予測することができ、岩場には少々手こずりましたが特になんの問題もなく通過できました。
それにしても今日は暑くて体力が消耗している、それに靴の問題で足の痛みが酷くなる一方です。
標高1300m付近から一時的に雪原歩きになることは予定通りでしたし、その雪原歩きもまるで石転び雪渓のような広い大斜面を過ぎた1770m付近から再び藪歩きになるということも予測通りの展開でした。
ただ残念なことに標高1900m付近の稜線手前から再び雪原歩きになる予定が外れてしまいました、稜線の登山道と合流するまですべて藪を歩かされる破目となりました。
そして夕方、梅花皮小屋に到着、本当は門内小屋まで行きたかったのに、時間的に無理でした。
でも美味しい水が出ているので、梅花皮小屋は快適です。
5月19日
今日は天気が崩れるという予報です、せめて頼母木小屋の視察と計測が終わるまで降らないでほしいと願いながら頼母木小屋を目指しました。
朝から風は生温く、雨は近いことを感じさせます。痛めた足は相変わらずで、歩けば歩くほど痛さは酷くなってくるようです。
気温はぐんぐんと上がり、いっそう疲れは増してきます。
途中、門内小屋へ立ち寄りました。小屋は綺麗になっていて使用するに何も問題はなさそうです。
しかし管理棟は益々痛みが進んでいて、修理が必要なところが多く見受けられました。
そして今回の仕事先である頼母木小屋にたどり着いたのは8時半を過ぎておりました。
頼母木小屋は外壁の一部が剥がれているとのことでした。
急いで下見をし、小屋にある使えそうな資材を調べていると、ここでも炊事棟の壁が剥がれ、さらに物置のドアが壊れ、さらに屋根の一部が剥がれていることが判明してしまいました。
「あちゃー、こりゃだめだ」全部修理しようとしたら簡単にはできない。
とりあえず本題である外壁の資材類や足場関係の物を把握して、あとは相談することにして、西俣尾根に向けて下山を開始しました。
正月山行を中心にいつも通っている西俣尾根は雪がかなり解けて、そろそろ西俣尾根の季節はもう終わりといった雰囲気が漂っておりました。
今回、確か3年ぶりとなるくさいぐら尾根でしたが、相変わらず人の入山は少ないようで尾根の自然状態は良好なものでした。
その分、藪は濃くなっていて5月の半ばとなった今、随分と苦労をさせられましたが…。
飯豊の尾根は近くに梶川尾根、丸森尾根があり、それぞれ梶川峰、丸森峰といった名前の峰が尾根上にあり、おそらくそれらの峰から梶川尾根あるいは丸森尾根と呼称されるようになったのではないかと思われます。
このくさいぐら尾根には途中に楢の木峰と言う名前の峰があります、楢の木峰にある三角点名が草衣倉という名前なのだそうです。
それから途中にある岩場は確かに草生しておりますね。
長者ケ原からは梶川尾根、丸森尾根の他にダイグラ尾根と石転び沢といったところの登山道が整備されております。
あまりにも多くの登山道があり、丸森尾根でさえ切り開かれるときに反対運動が起きたと聞いております。
そんなことからくさいぐら尾根の登山道整備は今後もされず、このまま人の手によって荒らされることなくひっそりと長者ケ原から稜線へ派生する主尾根の中で唯一自然の姿を残したままの尾根であってくれるものと思われます。
下山して新潟県に山小屋の傷み具合を相談しにいくと「壊れたところはこの際、徹底的に直しましょう」という結論になり、私の山小屋修理仕事はどんどん増えそうです。
その後も小屋を管理運営する胎内市と飯豊胎内の会に小屋の破損状況を報告に行くと、いろいろな話の中で、近々今年度の会議を開き、作家の高桑信一氏も来られるということを聞きました。
高桑さんと言えば先日、飯豊からの贈り物という門内小屋の管理人日記を発刊され、その中で私のことを多く書いてくださっております。
「お礼を言わなくてはいけないなー」と思っておりましたが「書かれて大丈夫か」と皆が心配するほどそれはあまりに恥ずかしい内容であり、私としては穴があったら入りたくなるような内容でもありました。
「高桑さんと直接その件について話してみたらどうだ」と皆さんから言われ、高桑さんが来られたその日の夜、飯豊胎内の会の亀山さんのご厚意により一席設けていただく運びとなりました。
高桑さんには何を言おうか?どんな話をしようか?あるいは抗議でもしようか?夜もろくに眠らずにあれこれ考え、必死で作戦を練りました。
万全の状態で臨むべく徹夜でシミュレーションをし、徹底的に強固な姿勢を貫き通そうと心に誓って、そして時は満たされました。
いよいよ決戦の時がやってきたのです。
武者震いを抑えながら会場に向かい、そして入口の扉を開くとそこには固唾を飲んで私の会場入りを待つ多くの聴聞者、震える足でその中央へと歩を進めました。
さて、ここは会社です。そろそろいい加減に私も作文ばかり書いてないで仕事をしなければいけません。この話の続きは飯豊山小屋修繕記その2へと持ち越させて頂きます。
つづく。