八甲田山

平成25814

 

先日、BS放送で八甲田山というタイトルの映画を見ました。

新田次郎原作の死の彷徨という小説を元に作られたこの映画を見た時、私はとても大きな衝撃を受けました。

 

八甲田山といえば登山史上最悪の197名の遭難者をだした雪中行軍が有名ですが、その映画はその雪中行軍を題材にしたものです。

日露戦争の真っただ中、雪中での戦闘を想定された訓練で、当時は越後の新発田駐屯地や高田駐屯地と競い合うようにして厳冬期の訓練が実施されていたそうです。

おそらく私はこの映画を以前にも見たことがあったと思いましたが、今回は正月の飯豊を単独で行くようになってから見たものですから私にとってあの衝撃はとてつもなく大きなものとなりました。

 

山に入る前の計画段階から漂う悲壮感、それぞれの人たちの思いや心境がリアルに描写され、大きな不安、苦悩や葛藤と戦いながら厳冬期の八甲田山に臨もうとする姿は、あの正月の飯豊山行の辛さや苦しさと重なり、私の中で正月の飯豊山行を思い起こすには十分すぎるほどの内容でした。

 

そこでこのお盆は是非、雪中行軍に慰霊をしたいと思ったのと、後藤伍長遭難碑にお参りして私の正月飯豊山行の安全をお願いしたいと思って八甲田を訪れてまいりました。

 

東北の山々は魅力的な山が大変に多くひしめいており、もし言葉で東北の山々を形容するなら、瑞々しい純真無垢な美しさ、汚れが無くて初々しい、優しくて穏やか清々しい、などなど賞賛の言葉がいくつもでてきます。

八甲田山ももちろんそんな形容が良く似合う山で、丸みのある女性的な山容の中に随所に池塘や湿原がちりばめられたとても美しい山です。

 

私は登山を始めたころから八甲田山をはじめとした東北の山々に憧れておりました。

しかし当時は日曜日しか休みでなく、遠い八甲田を訪れることはとても困難なことでした。

そんな中ようやく八甲田山に訪れる機会に恵まれたのは21年前の9月のことです。

当時、酸ヶ湯へ向かう国道はまだ砂利道となっていて、とても国道とは思えないような林道と言った感じでした。

まだ登山ブームがやってくる以前のことでしたので登山者の姿はほとんど見られず、休憩した山小屋で二人の女性登山者と遭遇した程度で、その女性登山者から「これどうぞ」と言って差し出されたハーブティなる飲み物が、まったく味気の無い飲み物だと思いながらも女性の笑顔にルンルン気分で下山したことが今でも鮮明に記憶に残っております。

携帯電話もパソコンも無い時代、今の私ならすかさず連絡先を交換していたことだろうに…。

しかしそれにしてもあの頃と比べると今は当時の様な山の素朴な風情はどこにも感じられません。

酸ヶ湯温泉へと向かう国道は立派になり、大駐車場とビジターセンターが作られその駐車場も満杯になるほどで、山のひなびた一軒宿だった酸ヶ湯も今では大きな観光地と化してしまっております。

登山道も約束通り人が溢れていて、昔の静かだった面影はどこにもありません。

しかし山はまだとりあえず大丈夫のようでした。私自身、八甲田山に登るのはこれで三度目になりますが、いつ来てもここは素晴らしい楽園のままです。

酸ヶ湯から緩やかに登る登山道を辿り仙人岱を経て、やがて見晴らしの良い急な坂をしばらく上りきって八甲田大岳に登りました。

下山路は私にとっては嫌な名前の毛無岱を通過して酸ヶ湯へと下りましたが、八甲田山は相変わらずのまま、あくまでも優しさに満ち溢れ、どこまでも澄んだ透明な空気をそこに感じて下山することができました。

登山自体はそれほど難しいものではなく、少しハイキング気分で登れるような山であります。

 

八甲田山は八つの甲のような峰々からなるとか八つの田んぼのような湿原が山腹にあるというところから名付けられたとされておりますが、峰の数といい、湿原といい数が八つではなく合いません。

日本国内に八の付く山名は多くありますがその代表的な八海山にしろ八ヶ岳にしろ数が合わないようです。

これはおそらく八という言葉は語呂が良く、言いやすいというところから山名に使われるようになり、要するにたくさんあるという意味なのではないかと思います。

 

酸ヶ湯温泉は貞享元年に横内村のマタギである左衛門四郎が傷を癒している鹿を見つけ、近づいてみるとそこから温泉が噴き出していたということでした。

まあ、このような温泉発掘の記述はよく聞く話ですが…。

酸ヶ湯は最初のうち鹿の湯と呼ばれていたが、いつの間にか酸ヶ湯になったということです。

でもあのお湯は目に入るとしみるし、傷口などあろうものならピリピリと痛みます。おそらく強い酸性のお湯で、そこから酸ヶ湯と言う名前になったように思われますが…。

 

明治初期の頃は温泉の権利が8円から9円ほどで売買され、湯宿は二間と五間程度の建物を湯主がブナの枝を使って建てていたそうですが

一冬越えると潰れてしまうので毎年建て替えていたそうです。

その後、郡場と言う人が二百円と酒二升で湯の権利を買い、それが今の酸ヶ湯の姿を作るスタートとなったそうです。

 

そんな酸ケ湯温泉は仙人風呂という大きな浴槽の男女混浴の風呂が楽しみです。

以前に入った時は若い女性の団体客に目をくぎ付けにされ、のぼせ上がってしまったということがありました。

その後、年配の女性客が入ってきたときには男性客はサーっと引き上げましたが、のぼせ上がった私は動きが散漫になり年配の女性客から逃げることができず、とうとう囲まれてしまい脱出に苦労したなんてことがありました。

 

しかし今回は酸ケ湯温泉には入らずに八甲田温泉に入りました。

雪中行軍が目指した最終目的地が田代温泉であり、現在の八甲田温泉だったからで、数名の生き残りの人が辛くもこの最終目的地である現八甲田温泉に到着するも、ほとんどの方が重い凍傷にかかっており救出されたにもかかわらず命を失ってしまった方もおられたようです。

そんな当時の生き残られた人たちの思いを偲んでみたいと思ったということもあり、とにかく男女混浴の酸ヶ湯は今回我慢して、その雪中行軍ゆかりの地である八甲田温泉を訪れてきました。お湯は酸ケ湯に負けないほどの見事な名湯でした。

 

山の楽しみ方は人それぞれ千差万別で無限大にあると思います。

私は山の歴史や宗教に纏わること、山名の由来などを調べることが好きです。

それぞれどの山にも深い歴史があるように、この八甲田山もあの山容からは想像しがたいほど冬は厳しくなり、そして雪中行軍のような悲劇が起き山の歴史として語り継がれ、この先も津軽の雪山を越えて永久に伝えられてゆくものなのだと思います。

 

ただ今となってはスキー場ができ、樹氷などを見るために多くのスキーヤーがここを訪れるようになっていて、それが良かったのか悪かったのか私にはまったく分かりません。

 

今の季節、八甲田はとても穏やかです。

私は遭難記念碑後藤伍長銅像の前に立ち、線香をあげ、遠くみちのく八甲田をあとにしました。