金峰山
金峰山
瑞牆山
瑞牆山
両神山
両神山
関東の山
11月24日 金峰山
11月25日 瑞牆山
12月8日 伊豆ヶ岳~武川岳~武甲山
12月9日 両神山
先日、久しぶりに伊豆下田の同級生から連絡が来ました。
「また今年も正月は飯豊に行くのか?」という質問に、一応彼は彼なりに気にしてくれているようでした。
その昔、彼がまだ新発田市に住んでいる頃、彼は私の家の近くで開催されているパソコン教室に通っておりました。
パソコン教室は毎週月曜日に開催されていて、教室が終わったあとの夜8時45分頃に必ず帰りに私の家に立ち寄ります。
しかし月曜の夜8時45分といえばちょうど水戸黄門が印籠を出す時間と重なってしまいます。
あの悪代官が印籠を見て驚き、ひれ伏す姿に気持ちはスカッとし、まるで心が洗われるようです。
「助さん格さん、もういいでしょう!」黄門様の言葉と共に「この印籠が目に入らぬか!」のセリフとほぼ同時刻に玄関のドアが開き「おーい、遊びに来たぞー」と言いながら大きな顔と土偶に似た落花生のような目をした彼はいつもやって来て、週に一度の私にとってはとても重要な時間帯、心より楽しみにしている大事なひと時をいつも彼は台無しにしていくのでした。
ところが彼は故郷の伊豆下田へと帰ることになり、もちろんパソコン教室も辞め「これからは心置きなく安心して水戸黄門を見ることができる。」
しかし世の中そんな甘くはないようで、彼が新発田市を離れると同時に水戸黄門も放送が打ち切られることになってしまいました。
「奴がパソコン教室を辞めたお蔭で、水戸黄門が終わってしまった。全部奴のせいだ!とんでもない卑劣なやつだ!」
私はその時の苦い経験を嫌な思い出として、いつも根に持ったまま日々過ごしておりましたが、そんな彼からの連絡にいくらか気分は晴れ、伊豆下田の彼の家に遊びに行った時のことを思い出し、その時に生まれて初めて見た富士山がとても印象的で、また富士山を見に行きたくなってしまいました。
さてさて山の話に移ります。
毎年この時期になると日本海側の天候は冬入り前のぐずついた日々が続き、登山受難の時期となってまいります。
もちろん山へ登れない日が続くということはとても残念なことでありますが、それよりも自分自身非常に気がかりなことが正月の飯豊を前にして山に登ることができずに体が鈍ってしまうのではないかと心配になるところであります。
正月に飯豊に行くということはしっかりとした計画や装備が必要なことは言うまでもありませんが、体調を管理するということも非常に重要になってきます。
山に登れないこの時期、登山盛期の頃の勘や体力などを維持しつつも適度に疲れすぎないようにトレーニングに励み、正月にピークに達するようにしなければならないことがとても難しいのです。
本来、私は山に登るためにトレーニングをすることは嫌いです。
ただ単に山を楽しみたいと思っているだけで、楽しい思いをするために苦しいトレーニングをしてまで山に登ろうとは思いません。
しかし正月の飯豊だけは別で、通常に生活していたものではなかなか簡単に登頂はできません。
そこでこの時期、気候が安定している太平洋気候の影響下にある山に行き、トレーニングを兼ねた山行を実施しようと計画をしておりました。
折しも前述した予期せぬ同級生からの連絡により、富士山の見える山に登って一石二鳥山行という目論見がありました。
まず、最初に計画した山は新潟県から比較的行きやすいと思われる金峰山と瑞牆山です。
双方とも日本百名山に選出されており、知名度が高く、実際に山自体も太平洋気候の影響下にあるものの、この奥秩父に聳える二峰は周囲を南アルプス群や八ヶ岳連峰に囲まれているにも関わらず一際異彩を放っている秀峰であり、遥々新潟から遠征してまでも登る価値のある山であろうと思います。
ひとつ心配したことは、実は先日トレーニングのためそれぞれ足に2kgの錘を付けて角田山に登ってきましたがその時あまりに容易でまったくトレーニングにならなかったということがあり、今回もその二の舞になるのではないか、そのことだけが少し気がかりでありました。
まあ角田山あたりと比較するわけにはいかないと思いますが、とにかく今回は岩場も多く地面は凍り付いているようですし、足を痛めると大変なことになるので錘は着けずにその代わり荷物を25kgに設定して登ることにしました。
11月24日 金峰山
ザックの中身は食料や必要以上の水、それからテント等も入れておきました。
歩行速度はトレーニングなのでゆっくり歩きません、できるだけ急ぎ足で進みます。
思った通り飯豊のような急な登りは少ないうえ登山道はとても広く、この時期だというのに若者を中心とした登山者で賑わっておりました。
あっという間に富士見平小屋に到着し、この時点では私の中で楽勝ムードが漂っておりました。
富士見平小屋から登山道は金峰山と瑞牆山へとルートが別れ、今日は金峰山へ向かうことにしました。
相変わらずだらだらとした道を登ると程無く大日小屋へ到着しました。
大日小屋はとんでもなくおんぼろで、飯豊で一番老朽化している頼母木小屋や門内小屋などはこの大日小屋に比べると超豪華ホテルになるのではないかと思われます。
ここからしばらく進むととうとう路面が凍結し始め、アイゼンを装着して山頂へと向かうことになりました。
最初は楽勝ムードだった登山道はいつしか徐々に急登となり、鬱蒼とした樹林帯の中を進めど進めど先は見えてきません。
こうなるとどんどん荷物が重く感じるようになり、じわじわと金峰山への道のりの厳しさが実感してきます。
標高2300m付近でようやく森林限界に達し視界が開けると、遥か彼方に白く雪化粧した金峰山山頂が見えてきます。
晴れているものの雲の領域はまだ多く、本来なら富士山が見えるのでしょうけれど今日は無理そうです。
むやみに重くした荷物に喘ぎながら凍った岩場をいくつも越え、やがて狭い山頂に出ることができました。
確かに荷物は重いということもありましたが、それにしても以外と苦労させられましたし、森林限界から上は非常に景色が良く、なかなか登り応えのある素晴らしい山でした。
体力度としては私の住んでいる新発田周辺の山々ではおそらく蒜場山あたりに匹敵する程度かと思われます。
金峰山は平安時代に智聖法師が金や水晶採掘のために開山したとされているようです。
1540年に武田信玄が長尾山鉱山を開き、江戸時代に栄えたとされているということからも、金等が採掘された形跡があるようです。
しかし金峰山の山名由来は金採掘からきているのではなく、熊野修験者が蔵王権現を祀り修行に励んだ山とされておりますが、その熊野修験者が修行を積んだ山を大峰山あるいは金峰山と呼んでいるそうです。
信仰の歴史は古くからあったそうでヤマトタケルの尊が山頂の御像石の下にスサノオの尊とオオナムチの尊を祀ったのが始まりとされているということです。
それからいろいろ調べているうちにこの山に纏わる伝説を見つけました。
山麓に住む信心深い大工の夫婦が連れ立ってこの山に登ったとき、女人禁制の山だったため妻の千代は罰として崖から落とされてしまったそうです。
夫は山頂で7日間断食をして、妻を許してくれるよう神様に祈り続けたそうです。そして7日目、一陣の風とともに妻の千代は崖下から吹き上がってきたそうです。以来、この崖を千代の吹き上げと呼ぶようになったということです。
この日はテントや食料を背負ったまま日帰りで下山し、車で一晩を過ごして翌日瑞牆山へと向かうことにしました。
11月25日 瑞牆山
今日は全国的に晴れるということで、こんな寒い時期にも関わらず朝から多くの登山者でごったがえしている登山道を登りました。
カラフルな服装をした若者が多く、北アルプスほどではないにしろ野性味がまったくなくなり、自然が薄れてしまっているように思えます。
私は飯豊や朝日連峰に登るときはとにかく腹が減りません。
人はを動かしたり運動すると食欲が落ちるということが科学的に実証されているということを聞きました。
これは運動することにより体が野生化し、いつのまにか防衛本能が働くことにより食欲が落ちるのだそうです。
私が飯豊や朝日に登って食欲が落ちるというのは登山という激しい運動をしていることの他に、本来は食料に乏しい自然の中に入ったことで極力食べ物を摂取しなくてもいいように、必要最小限のカロリー摂取だけで行動できるよう体が勝手に野生回帰しているように自分自身で感じております。
だからその証拠に北アルプスへ遠征に行ったときもそうでしたし、今回の山行も腹が減ります。
今は飽食の時代、世の中美味しい食べ物で溢れ、山で食べる食料でさえも以前と比べ物にならないほど便利になり、多様な食品を美味しく食べることができるようになっております。
それが現代の登山事情なのでしょう、たまに飯豊や朝日を離れてみてそんな当たり前のことに気が付かされます。
とても気楽に登山ができ、それを悪いとは言いませんが、野性味が無くなっていることは確かで、ちょっと残念な気がします。
ただ、それとこれとは別に瑞牆山も金峰山に負けないくらいなかなか良い山であることも確かなようです。
高度を上げるにつれどんどん景色が良くなり途中から富士山を背負いながら歩くようになります。
いつも振り返ればそこに大きく端整な円錐形の富士山が見事に見え、連続する岩場をいくつも越えるとやがて山頂に着き、そこには大きな南アルプスと八ヶ岳が待っていて、そして大きな富士山。
素晴らしい山頂からの景色に「来て良かった」とつくづく思いました。
ところがその大きな富士山を眺めていると、奴の大きな顔と土偶の落花生のような目が私の脳裏に浮かんできてしまい、仕舞には富士山が大きな土偶に見えてしまうのでありました。
せっかくいい気分に浸っていたのに奴はどこまでも私の楽しみを妨害してしまうようです。
瑞牆山は以前、子産岩(こぶいわ)と呼ばれていたそうですが、甲斐国志に瑞壘(みずがき)と書かれていたそうで、それを明治時代の山梨県知事である武田千代三郎氏が瑞牆山に改めたということです。
牆とは古語で崖のことを言い、瑞とははじっこのことを意味し、奥秩父西端に聳える崖の山ということなのかもしれません。
この山にもひとつ伝説がありました。山中に洞窟がありカンマンポロンという梵字が刻まれているそうです。
カンマンポロンとは大日如来と不動明王のことを言うそうですが、この刻印は弘法大使が刻んだとされていて、この山に大日如来と不動明王を祀って修行をしようとしたのだそうです。
下山時には時折木々の隙間から土偶が見え、常に土偶に見守られて…、
いやいや、木々の隙間からは富士山が見え、富士山に見守られながら登山道を下りました。
帰りは増富温泉に寄りましたがお湯は冷たくまるで水風呂のようで、お蔭で寒いまま眠気を催すことなく新潟まで帰ることができました。
尚、この二山へ向かうには中央高速道須玉インターまで約4時間、そこから下道を40分程度で登山口に着くことが出来ました。
12月8日 伊豆ヶ岳~武川岳~武甲山
正月の飯豊が近づくにつれ私の奥底に潜んでいた恐怖が刻一刻と増幅していき、日々気が重くなっていきます。
気が滅入ってばかりで何もしないわけにはいかない、装備等の準備はほぼ整いつつあり、年々完成度も上がっているように思います。
ただ、とにかく体調を万全な状態にしなければならない、今はそれだけです。
12月8日と9日の連休も体を動かすことでいくらか不安感の解消とトレーニングができればと考え、再び関東の山々を訪れてきました。
先日、訪れた金峰山、瑞牆山は結構遠かったので今回は少し近い山を探していると、「伊豆ヶ岳いいよ」と東京在住の友達から助言をしていただきました。
通常、新潟県に住んでいれば伊豆ヶ岳は思いつかない山だと思われます。
関東の山を楽しみながらもトレーニングを兼ねた山行というつもりなので、連続する三つの山をセットにすることで趣が大きく変わり、益々新潟県民では気が付かないような、それでいてなかなか面白い玄人山行をしてくることができました。
行きは関越自動車道鶴ヶ島インターまで約3時間ちょい、そこから40分程度で秩父線正丸駅に着きます。
駅が登山口のようになっていて、駅構内の駐車場に500円で駐車し、まずはここから伊豆ヶ岳に登ります。
時期外れと言うことで人は少なく、なんでも2週間前は人で溢れかえっていたということです。
それにしてもまだところどころ紅葉していて、新潟の天気が嘘のようなほど空は青く澄みきっております。
落ち葉に埋もれた登山道を1時間ちょっと登るとあまり広くない山頂に出ました。
それにしても伊豆なんて言うとまた土偶を思い浮かべそうで心配でしたが、富士山が見えないので大丈夫でした。
山頂の看板には伊豆ヶ岳は柚子が採れるところからゆずがたけが訛って伊豆ヶ岳になった、あるいは温泉が出ていたところから最初は湯津ヶ岳だったのが伊豆ヶ岳になった、あるいはアイヌ語の説があるとのことが書いてありました。
柚子が採れるかどうかは分かりませんが、山麓に温泉はありません、それからアイヌ語に関しても、かつて蝦夷国だった東北ならアイヌ語も考えられますが、ここは埼玉県なので違うような気がします。
他に天気の良い日は山頂から伊豆まで見えるといったところから伊豆ヶ岳になったという説もあるようで、これだとなんだか私の目の前にはやはり落花生や土偶がチラついてしまいます。
山頂は季節風が吹いており肌寒く早々に武川岳へ向かいます、15分ほど下ると一旦車道に出て武川岳の登山口の標識から登り始めまることになります。
素直な一直線の急な登りを大汗をかきながら登り終えるとベンチのある山頂に出ます。
武川岳の武はおそらく武蔵(埼玉県)の武でしょうし、川はこの山は荒川源頭の山だということで名付けらえたのではないかと勝手に憶測しましたが、あまりにも単純でしょうか?
ここからまた30分ほど下り今度は武甲山の登りへと取り掛かります。
武甲山は奥武蔵を代表する山で、二百名山にも数えられている今日の山の中では一番知名度が高い山だと思われます。
先ほどの武川山ではありませんが、単純に武蔵の武に甲斐(山梨県)の甲で武甲山と名付けられたのだろうと思っておりましたが、ここから甲斐まではちょっと距離があり不自然なので、歴史を調べてみると日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征で奥武蔵を通過した際この山の立派な姿に感激し、戦勝を祈って山頂付近の岩窟に鎧や兜を祀ったところから山名がきているということでした。
武甲山は今日のハイライトの山、登りもハイライトに相応しく非常に厳しい。
息つく暇なく終始延々と続く急な登りに苦労しながらようやく狭い山頂へと至りました。
武甲山から見える景色は石灰岩採取により山頂付近まで大きく切り崩された斜面が印象的です。
現在も採掘は進んでおり、山頂はすでに削られていて標高は41mも下がっているそうで周囲にはフェンスが張りめぐらされております。
いつしかこの武甲山は人の手により破壊されてしまうのかもしれません。
今日のハイライトである武甲山の姿を見ると、自分自身が仕事とはいえ山小屋修理等の工事に携わっていることが正しいのかあらためて考えさせられてしまいます。
山に登るために整備と称し都合よく山を破壊し、そしてその破壊した人たちが自然保護を唱えている姿に愚かさを感じずにはいられません。
山ばかりではなく、以前私が携わった仕事に川の護岸をしたことがありました。それは自然に優しいという謳い文句でコンクリートブロックではなく石を積み、魚等のそこに生息する生き物に優しいということでありましたが、その積上げた石は山を切り崩して採取したものです。
今日はそんな痛々しい武甲山の姿を目の当たりにし、滅びゆく自然と景観に感慨深くさせられてしまうような、武甲山とはそんな山なのでありました。
帰りは浦山駅まで歩いて電車で正丸駅へ戻りましたが駅構内では一般客より登山客が多いことに驚きました。
12月9日 両神山
両神山は奥秩父の山々の中では北に位置し、新潟から比較的近い山なのでここを登ってみることにしましたが、どうせ登るなら岩場の多い八丁峠から西岳、東岳を経て山頂に至るルートを選びました。
なんだか西岳とか東岳なんて名前の付くところは必ずと言っていいほど岩峰ばかりのような気がします。
北や南の付くところはあまり岩峰のイメージがないのは私だけでしょうか?
このルートは埼玉県の山では一番滑落事故の多いルートだということです。
志賀坂トンネル入り口から舗装された山道へ入り八丁トンネルの手前に大きな駐車場と立派なトイレがあり、ここから登り始めます。
最初は特に危険ヶ所はなく急な登りを登りきると尾根上に至り八丁峠となります。
そして、ここからいよいよ鎖場の連続です。
雪が薄らと積もっており、岩は凍っていて滑るうえ手を着いたりすると軍手が岩に張り付いてしまいます。
普段の私は軍手が汚れそうなところを掴んで通過するところは軍手を脱いで素手で通過します。
雨具も同様で汚れたり濡れそうなときは脱いで通過したりするときも多々あります。
しかし今回は断腸の思いで、軍手をしたまま岩や木を掴みました。
私は岩歩き楽しみに来ているわけでも練習に来ているわけでもなく体力維持、健康維持、精力増強、身体堅固、家内安全、開運招福のためのトレーニングに来ているのです、ゆっくり登っていたのではここへ来た意味がありません。それに今日は午後から天気が崩れるという予報でした。
とにかく体がクタクタに疲れるまで狂ったようにガシャガシャと岩を登りました。
近くに見える甲武信ヶ岳や雲取山はすでに雪が舞っているようです、やがてあの雲は両神山にも雪を降らせ始めるであろう、とにかく急ぎ足で山頂を踏み、早々に下山を始めました。
下山の途中から両神山にも小雪が舞い始めましたが、大降りになる前に無事に下山することができました。
両神山は一般的に大和国を作った最初の神様であるイザナギの神とイザナミの神を祀っているところから両神山と名付けられたとされているようですが、イザナギの神、イザナミの神を祀ったのは近年のようで、他に由来があるとのことでした。
諸説紛々、武甲山でも説明した日本武尊が東征に向かう時に志賀坂峠を越えるときに8日間も両神山を見ながら越えたということで8日見山(ようかみやま)と名付けられたという説が多く見受けられました。
他に日本武尊が竜王と呼ばれていたところから竜王から竜神に、そして両神になったという説や八百万の神(やおろずのかみ)を祀った山で、やおがみが両神になったという説などがあるようです。
この日、両神山で出会った人は5人。こんな小雪のチラつくシーズンオフでも少数ながら登山客はいるものです。
両神山も百名山に選ばれている山でありますが、もしこの山が百名山に選ばれていなかったら登山客はいたのでしょうか?
百名山や二百あるいは三百名山まで選ばれている昨今、本来は山に優劣をつけることはおかしなことだと思いますが、私自身も関東遠征で登る山を決めるのに百名山を参考にしているようで、自分でも知らず知らずのうちに何とか名山と言うものを利用してしまっているようです。
でも前日登った伊豆ヶ岳、武川岳、武甲山はいずれも百名山ではありませんが、百名山の山々に負けない山であったことも確かなことです。
無事下山後は赤谷温泉に立ち寄り、12月としては記録的な大雪に見舞われた新潟へと急ぎました。
花園インターまで約1時間半、月夜野付近から降りしきる雪に視界が奪われ、高速道路の通行止めは解除されていたが、ノロノロ運転のため6時間近くかかってようやく帰ることができました。
登山よりも車の運転が疲れる山行となってしまいました。
さてさて、これで正月前に関東遠征トレーニング登山はひとまずこれで幕を閉じ、これからは雪の新潟で雪中トレーニング登山等これからしばらくの間は我慢の日々が続きます。
それもこれも正月の飯豊の苦しさを少しでも緩和できるように、そして登頂、無事に下山を目指すためのものであります。
それともあの悪代官様のように厳冬期の飯豊の前にひれ伏してしまうことになるのでしょうか?
どうなることやら…、あー怖い怖い。
来年、良い正月の山行報告ができればいいなと思っております、ではでは。