正月の飯豊
西俣峰~大ドミ~頼母木山~北股岳
序章 はじめに
今回、挑戦した正月の飯豊は1月3日、無事に人間界に下山することができました。
何事も無く無事に下山することができ、今はホッとしております。飯豊に入山することに対し、長い間恐怖心と苦悩で葛藤する毎日が続きました。しかしもうそれも終わり、今は穏やかな日々が訪れております。
山行としては概ね思い通りのものとなりましたが、ただとても残念なことにカメラが凍りつき、暖めてもバッテリーの低下によりまったく写真を撮ることができませんでした。これについてはとても悔しくてなりません、事前にカメラのチェックや予備のバッテリーを持っていかなかったこと等、今回の最大の反省点となりました。
また、下山後は安堵のためか、しばらく放心状態になり登山日記が進まず、随分遅れての掲載になったことも反省点として挙げておかなければならないと思います。
放心状態の中、ふらふらしながら地道にやっと書き上げた登山日記ですが、ふたを開けてみると結構な長文になってしまいました。御面倒をお掛けしますが、皆さんも地道で構いませんので、読んでみていただけたら幸いに思います。
第一章 厳冬期の飯豊について
厳冬期の飯豊登頂の難しさは、去年の下越山岳会の正月飯豊山行報告で書きましたが、再びここでもふれておこうと思います。
懐深い飯豊連峰は、裾野から稜線に至るまでの距離が大変に長く、ただでさえ盛期の頃でも登頂するには厳しいところです。
そんな飯豊連峰は日本一の豪雪地帯に位置しており、日本海気候の影響をもろに受けている山で、11月から3月にかけて晴れる日はほとんどなく、標高1400m~1600mくらいまでは大雪に閉ざされ、たとえ人が入山しても猛烈なラッセルに苦しみ、その上部は亜高山帯となり、大きな木がまったくなくなり、遮る物のない稜線部には猛烈な強い季節風が常に吹き荒れていて、20m以上にも及ぶ大雪庇を形成する要因になっております。
また、その稜線部は飯豊特有のおおらかで女性的な山容をしており、逆にその広い稜線が仇となり、冬の間はほとんど濃いガスが発生していて、そのガスの中では方向がまったく分からなくなってしまい、道迷いの他に発達した大雪庇を踏み抜いて滑落という危険なども予測されます。
気温は標高3000m級の山々に比べれば確かに低くありませんが、あの強い風により、体感温度は北アルプスあたりの比ではありません。
また、いくつかある避難小屋はすべて無人小屋で、盛期の時期のみ管理人が常駐する小屋もありますが、すべて自炊であり、もちろん冬期間はすべて無人小屋となります。
周囲にはリゾート開発に伴う人工的な環境がまったくと言っていいほど皆無で、自然の驚異がもろに感じられる山域であります。
これらのことを考えると厳冬期の飯豊は日本一登頂が難しい山といっても過言ではないと思います。
本来、厳冬期の飯豊は人が入るべきところではない、仮に入ったとしても命がけになってしまうほどの覚悟が必要で、趣味の範疇を超えてしまうものとなり得ます。
そんな人を寄せ付けない自然の猛威と悪条件が重なることにより、入山を拒み続けている厳冬期の飯豊ですが、私自身、正月の飯豊に挑むのはこれで5年連続になります。
5年前に初めて臨んだルートもこのルートで、3回続けてこの西俣尾根ルートから北股岳を目指しましたが、どんなに頑張っても、どれほど努力しても頼母木山までが精一杯で、ある時はあの深い積雪と人ひとりくらい簡単に飛ばされてしまうほどの強風に阻まれ、またある時は自分の足が見えないほどの濃いガスで前進できなくなり、北股岳など夢のまた夢、幾度の挑戦も退けられ続けておりました。
4回目の去年は趣向を変え、川入から飯豊本山を目指してみたところ、初挑戦で意外にあっさりと登頂に成功できました。
その時は確かに天候にも恵まれ、幸運に恵まれた面は大きいと思いますが、飯豊連峰の稜線上で一番南に位置する本山は、比較的日本海気候の影響を受けにくいと言えます。
確かに一番北側にあるエブリ差岳と本山では植生の違いが見られ、そのことを考えても気象条件が違うということが良く分かります。
北股岳は連峰の中央に聳える一際大きな峰で、この時期は入れるルートからすると危険な長い稜線歩きを強いられる上、気象条件は日本海の季節風に大きく影響を受けているところであり、それに本山、御西岳、大日岳といった高峰が連続している付近は雲がそれぞれに分散されるのに対し、連峰中央にただ一座大きく聳える北股岳には雲が集まりやすく、結果的に悪天になりやすく、風も強くなり、厳冬期の北股岳登頂はいっそう困難なことになっているのだと思います。
第二章 正月飯豊への道のり
例年、会山行として実施されていた正月の飯豊ですが、今年は私の個人山行ということで実施することになりました。その経緯についてですが…。
去年は当山岳会の笹川さんの他に小国山岳会のコンちゃん、しみけんさんと私の4人で飯豊本山の登頂に成功し、小国の方たちとはまた一緒に行きたいと思いました。
ただ当会の参加者が少ないため、まずは厳冬期の飯豊に挑戦、あるいは興味を持ってくれるような新たな人を発掘し、一度か二度程度、正月の飯豊に連れて行くことが必要と考えました。しかしそれにはかなりの時間が必要なので、正月の飯豊会山行は数年間のインターバルがほしい旨を当時の会長である藤井さんに相談してみました。
しばらく正月の会山行飯豊はやめて、飯豊以外の山へ他の人を正月山行の担当にして、一から立て直す意味でも登りやすい唐松岳とか、安達太良山とか、あるいはあまりにも初心者的になってしまいますが雪山の楽しさを知るという意味で八ヶ岳あたりに行ってみてはどうかといった提案をしておりました。
他の人を担当にというのは、この時点で私の頭の中では次回の正月は個人山行単独で飯豊に入るという決意をしておりました。
結果、会山行は例年通り二王子岳の正月山行のみ実施されることになり、飯豊はおろか代わりの山行も実施されることはなくなりました。
去年の1月の時点、これで私の中では次回の正月は単独で行くということが決定し、大まかなプランもほとんど決定しておりました。
第三章 入山の心得
入山の心得などと言うと、大げさでありますが、要するに正月の飯豊に入るには大きな危険が伴うものであり、またそれに対し安全に山行を終えるには大変に多くの準備が必要なので、それらについて書いてみます。
まず去年と違うのは、今年の場合は会山行ではなく個人山行ということです。
会山行の場合、会を挙げての山行なので、会全体をまとめなければならない分、準備があまりにも多いのですが、手伝ってくれる人も多くおられます。
個人山行の場合、手伝いはありませんが、自由気まますべて自分のペースで準備ができるので、その点は気楽だなと思っておりました。
① 本隊メンバーの確定
例年は春頃からお盆までにかけて本隊メンバーを決めておりました。しかし今回は何もする必要がありません、なにしろ自分だけしか参加者はいないのですから。
② 行程計画
これも自分一人なので簡単です。自分の都合のいい日に登り、都合のいい時に下山すればいいわけですし、行先や幕営地などもこれまた自分の考えですべて決めてしまえます。
今までの経験上、概ね無理のない歩程を考えると、初日は大ドミまで行けるものと考えましたが、もし12月が大雪になりラッセルが厳しくなると初日は西俣峰までと予測し、最悪の場合の行程として12月30日西俣峰で幕営、12月31日大ドミで幕営、1月1日北股岳アタック、1月2日えぶり差岳アタック、1月3日下山、1月4日予備日とすることにしました。
③ 食料計画
行程が決まると、食料計画を決めることができます。
自分の食べたい物を自由に決め、重くなりすぎないよう、余り過ぎないように注意し計画をたてました。
④ 荷上げ計画
これは食料を一斗缶に詰めて幕営地に荷上げするのですが、登山日記でも書きましたが、10月30日に荷上げを実施しました。そのときはナメコが多く採れてとても嬉しい思いで下山しました。確かその日は新潟県山岳協会の親睦登山で皆さん蒜場山に登っておられた日だと思いました。
⑤ 通信計画
私は通信があまり好きではありません、煩わしいのです。以前は定時交信と称して例えば6時、12時、18時の一日に3度の無線交信を行ったりしていたようですが、例えばラッセルをしている途中でラッセルを止め、吹雪の中で手袋を外して無線交信を行い、またその無線が通じなかったりして、結果的に心配させてしまったりするような時もあったので、緊急時に連絡が取れる体制は整えなければなりませんが、定時交信という形での交信は無意味とまでは言いませんが、極力やらない方がベストと考えております。
しかし山岳会に入会している以上、最低でも一日に一回は連絡を取らなければならない、それが義務ということなので、また私の個人山行で他の会員の人たちに心配や迷惑をお掛けすることは絶対にあってはならないと思ったので、とにかく会長の佐久間さんと一日一回、18時に携帯電話で連絡をすることにしました。
しかしそれだけでは不安ということで、小国山岳会井上さんの御配慮により小国山岳会事務局長の高橋さんに緊急時に無線交信、あるいは中継という形でお世話してもらうことになりました。正直、いつでもいざという時は高橋さんと無線連絡ができるので大変に安心して入山することができ、これには本当に助かりました。
⑥ サポート隊の決定
本来は自分だけで入山するつもりでしたが、思いがけない坂場さんからの呼びかけで数名のサポートをしてくれる方が集まってくれました。
会山行のように大々的にやるとまた面倒で厄介なことになりますが、今回はあまり話しを大きくせずに内々でサポート隊を決定したので、少人数ですが、特に苦労せずサポート隊の方が集まり、計画をたてることができました。
⑦ 装備計画
本来は個人装備と共同装備に別けられるのですが、すべて個人装備となります。
毎年のことなので、また同じ物を揃えればいいと思っており、今回は去年使った物をそのまま信用して持ち上がりましたが、やはり正月前に一度は使っておかなければなりません。アイゼンは靴の装着具合に若干の甘さが出ておりましたし、スノーソーとスコップは今回のために新調したものを持ちましたが、これも未知のまま持っていってしまいました。現地で不具合が出てしまったら大変なことになります。スノーソーとスコップは大丈夫でしたが、最たる後悔がカメラでした。やはりカメラも今回の山行のために新調したものを持
っていったのですが、凍りついた上、バッテリーの低下があり、まったく作動しませんでした。別の山で何度も使い、良く確認してから持っていくべきでした。
⑧ 標識計画
標識は細竹に赤い布を付けて、要するに旗のようにしたものを道迷いしそうな所に立てて進んで行く、要は帰りの目印とするのですが、概ね30m~50mおきに立てていきます。
特に木の生えていない森林限界から上に使用するのですが、本数にすると200本以上が必要になります。しかし今回は一人なので50本の標識しか準備しませんでした。
この標識を多く持ち上がることができないことは、単独山行の大きな弱点です。
参考までにこの竹は姫竹といわれている竹で、細竹の中では節が曲がってなく、真っ直ぐな種類の竹です。この姫竹を今回は1m程度の長さに切って揃え、先端に三角の綿素材の赤布を取り付けて作ります。布は化学繊維では残地できないので、あくまで綿を使用します。
⑨ 機関に提出
通常の山行ですと登山計画書を山岳会に提出するのですが、正月の飯豊ともなると行程の計画書以外にそれぞれ食料計画や装備計画なども数ヶ所に提出します。
今回、下越山岳会本部はもちろんですが、小国山岳会の井上さんにも提出させていただきました。それから通信でお世話になる高橋さんと登山口の奥川入荘横山さん。それから新発田警察署、小国警察署に提出しました。
あと、これらの他にも自分の身の回りの細かな準備や作業、体調管理など文章に表せないようなことがたくさんあり、正月が近づけば近づくほど大変に慌ただしい日々となってしまいます。
第四章 正月の飯豊に向けて始動
いつもですと春先からメンバーを模索し、プランを練り上げ、盆明けくらいから荷作り、荷上げの準備をするのですが、今年は一人なのでゆっくりでした。
準備期間は1年間。正月の飯豊山行という砦は自分一人ででも守りたいという思いは大きかったのですが、ただこの1年の間にも自分自身の中で多くの葛藤もありましたし、大日岳標柱の一連の件に関しては会に大失望し、真剣に退会を考えておりました。
大日岳の標柱の件はいずれ詳しく書く日がくると思いますので、それについては会を激しく批判することになると思いますので、ここでは書きませんが、とにかく結局、自分は一人で行動すべきだと判断しました、去る者追わず来る者拒まずの姿勢は社会人クラブとしては定石のことでありますしね…。
まあどうせ今までほとんど一人で行動していたので私にとっても何も問題はありません、ただし会としては失望したものの人間としては素晴らしい方々が多くおられるので、私としては会ではなく、素晴らしい仲間がいるという理由で退会には一歩踏みとどまっているような状態がずっと続いていた1年間だったように思います。
今回は10月頃から食料計画をし、10月の後半に荷上げをしに行きました、雪が降ると荷上げは厄介になるので、一人ということで雪が降る前に荷上げを済ませたかったのです。
これについては登山日記の中で正月飯豊の荷上げという項がありますが、ここで以前に会の大先輩である坂場さんが荷上げをしている姿を見て自分も同じように荷上げをしているということを書きました。ここで私は坂場さんや私が担当する前に担当していた若月さんから多くのことを教わっていたことに気が付き、今の私がこうして単独で飯豊に挑戦できるようになったのは偉大な先輩たちがいるからということを、この時に気が付きました。
それから「私の背中にはいつも下越山岳会の看板がぶら下がっているようだ」ともそこでは書いてあります。私はまさか下越の顔なんて冗談でも言えた立場じゃありませんが、それでも小さい字ではありますが、背中に下越山岳会と書いてあるようです。
先ほど退会を考えたことを明らかにしましたが、いろいろ教わったことに対する温情と、それから小さなものですが看板を背負ってしまった宿命として退会はすべきではないといった考えに変わりつつありました。
しかしいずれにしてもこの時点ではまだこの先ずっと一人を貫き通すつもりでおり、会には何一つ一切の干渉をしてもらいたくないと考えておりました。
今始めて明かしますが、計画書は入山日の前日に会長の佐久間さんの自宅ポストに投函するつもりでおりました。少し大人気がないとも思いましたが、誰が何と言おうと一人を貫くつもりでおりました。
ただしその分尚更のこと、会に迷惑を掛けるわけにはいきません。無理は禁物で、いつも以上に慎重に判断と行動をしなければならないということも自覚はしておりました。
そんなある日の夜、突然に坂場さんから電話がきました。「珍しいな、何だろう?」と思い電話に出ると「計画書は事前に佐久間さんに提出し、ちゃんと計画の説明をすべき」ということと、「もし差し支えなければ行きのラッセルくらい手伝うよ」、「例会に行って他の人にも声を掛けてみたらどうなの?」という内容の電話でした。
会に対する失望感や葛藤、正月の飯豊に対する苦悩と恐怖。自分の気持ちの中でいろんな多くのことが渦巻いている中での電話にかなり困惑しました。
自分は何がしたいのだろう?何でこんなリスクの大きな正月の飯豊に行こうとしているのだろう?気持ちを整理し、結論が出るまでに三日くらいかかりました。
確かに自分自身でも正月の飯豊に単独で挑戦してみたいという気持ちは大きいものではありました、しかし本当に正月の飯豊に行く目的は下越の伝統の行事を絶やしたくないという気持ちが第一でした。会山行が復活するまで自分一人ででもつなぎで行こうと思っておりました、いつか賛同してくれる人が現れるまでは…、しかし「サポートが来ることにより準会山行になるではないか、それは凄く良いことだ、会山行復活に一歩近づく」素直にそう思いました。
そんな紆余曲折を経て、会に協力を要請することにし、ささやかではありますがサポートの参加者を募り、あまり大々的にはやらず、規模は小さいながら布陣が固まりました。
それにしても私の個人山行にも関わらず少し声を掛けただけで皆さん可能な限り協力してくださります。暖かな支援に感謝すると同時に、それだけ会員の皆さんにとっても正月の飯豊には大きな思い入れがあることが伺えました。
思いはひとつ、布陣が固まり思いもひとつに固まりました。正月の飯豊に対する強い皆さんの思いはしっかり受け止めなくてはなりません、そしていつかまた会山行として皆で盛り上げるためのステップにしなければなりません。
もううじうじ悩んではいられません、あと残るは自分との戦いです、体調管理と準備は抜かりなく、絶対に妥協は許されません。
それから精神的な面で…、毎年のことですが、11月から12月にかけては正月の飯豊で頭の中がいっぱいになります。今年も準備等で慌しい日々と苦悩と恐怖で夜が眠れない日々がしばらく続きました。
そしていよいよ決戦の日である12月30日の朝を迎える運びとなりました。
第五章 山行
12月30日
天気予報が変わり、日本列島は寒波に見舞われておりました。朝の集合で強い風が吹き荒れており、滅入る気持ちをどうにか正常に保つのが精一杯での出発でした。
でも私は「必ず晴れる、そして必ず北股に登頂する」その気持ちに揺るぎはありません。
奥川入荘の横山さんの駐車場は2m以上の積雪があり、今年は例年の倍以上で、この時期にこんな積雪を見るのは初めてでした。
どうやら今年は悪条件の年のようです、そんな悪条件を目の当たりにしても私は必ず晴れる日があると信じていました。如何なる事実が私の目の前に現れようとも、私の先には北股岳しか見えていません。
今日は大変なラッセルでしたが、心強いサポートのお陰で午前中に西俣峰に着きました、しかし荷上げ品が雪で埋まって分からなくなっている。
ここは万が一を考え、探しておくのが懸命だろう、ここと思われる木の下を掘るのだがなかなか出てこない。何ヶ所か掘ってみたところ、ようやく1.5mくらい下から無事、荷上げ品が出てきました。しかしここで1時間以上費やしてしまったので、サポートの皆さんはタイムオーバーとなりここで下山となりました。
皆で昼食を食べ、皆でテント場を作ってくれ、テントの設営まで手伝ってくれ、早く快適なテン場が出来上がり、それを皆さん見届けてからここで下山されていきました。
熱い皆さんの気持ちのこもった西俣峰のテン場で快適な一夜を過ごすことができました。
12月31日
今日は大ドミまで、しかし荷上げ品は雪に埋まっていると予測できます。うまく発見できればいいのですが、できなければ下山を余儀なくされます。
大きな不安を抱えたまま、大ドミまで一人のラッセルに耐えました。10時半頃大ドミに到着し、予想通り大ドミの木々はすっかり雪に埋もれており、私の目の前には大雪原が広がっておりました。リミットは12時です、1時間30分以内に荷上げ品を見つけ出さなければ敢え無く敗退、夢は費え下山しなければなくなります。
木の枝が少しでも雪上に出ていればいいのですが、もしかすると全部埋まっている可能性だってあります。
最初はもちろん一番有力と思われる木の枝の下を掘りました、しかし2mくらい掘っても何も出てきません、何メートル掘ればいいのだろう?それとも木が違うのか?二つ目、三つ目と掘ったが、やはり何も出てこない。時間は11時45分「こんなことで夢は破れてしまうのか?」時間がなくなりもう無理と諦めて拍子抜けした状態になりながら虚ろな気持ちで掘った穴を埋め、帰り支度を始めようと時計を見ると11時55分、しかしどうしても諦めがつかず、これが最後と思い、四つ目の木の下を掘り始めた。
2m以上掘ったところで僅かに木の周りに巻きついているビニール紐が見つかり、さらに掘り下げると「田中のもの」と書いてある一斗缶が出てきた、そしてその脇から「これ俺の」と書いてあるもうひとつの一斗缶が現れた。
諦めかけた北股岳、もう一度闘争心に火を着けなおし、明日からに備えてしっかりとしたテン場を作り、勝負の時を待った。
1月1日
朝5時に起床、テントから顔を出すと空は星空。「千載一遇のチャンス到来!」、今までの苦労を、自分の全て出さなければ「よし勝負の時だ!」。
6時にテントから出るとヘッデン頼りに準備を始める。6時20分出発、まず目指すは頼母木山。
午後から天気が崩れることが予測されるので、急がなくてはならない、稜線で荒れられると大変なことになります。特にギルダ原辺りで天候が崩れたりしようものなら一溜まりもありません、最初から精一杯の力を振り絞り、北股岳目指し歩きます。
頼母木山には相変わらず強風が吹いている、ここは飯豊連峰の中で随一の強風地帯だ。
あまりの強風に体は煽られ、なかなか前に進むことができなくなり、また精神的にも不安が煽られるが、頼母木山から離れれば必ず風が弱まるはずです。
少し我慢して地神山方向へ行くと、思っていた通り風が弱まる。しかしまだ普通には歩けない、右に左に風と押し合いながら、しかも地神北峰の登りはハイマツの踏み抜きがあり、雪が薄っすらと被った登山道上を進むにしても踏み抜きは変わらず、悪い足場と強風に苦労して最後は頼母木山側に張り出した雪庇を乗り越え、地神北峰に達する。
丸森尾根側にも頼母木山側と同じような雪庇が大きくせり出しており、注意しながら標柱を探す。標柱は半分くらい雪で埋もれており、すぐに分かりませんでした、地神北峰は雪が吹き溜まる場所のようです。
歩きにくい登りはまだ地神山まで続きます、登山道は薄っすらと確認できますが、踏み抜くので歩けません、登山道の脇はハイマツ帯となっていてエビの尻尾が登山道と平行に並んでおります。このエビの尻尾よりもさらに山形県側を歩くようにするが、あまり寄りすぎると雪庇を踏み抜いてしまうのでハイマツ帯ギリギリの付近を歩く。
もしガスられて視界不良になると、大きく張り出した雪庇の上を歩いてしまいそうです。
地神山山頂付近は頼母木山を凌ぐほどの強風が吹き荒れており、雪煙が舞い上がり、かなり低温の中でこの強風は凍傷の危険をはらんでおり、顔等の露出している部分が痛みで辛く、とりあえず早く門内小屋の風を遮るところまで行きたい、そう思いながら歩いておりました。
地神山からの下りは一旦尾根が広がるものの、すぐに尾根は痩せてきて、登山道以外に歩ける場所はなくなります。次の小さな岩場のピークは岩から延びているエビの尻尾が登山道にまで張り出しており通過することができません。仕方が無いので新潟県側のハイマツ帯の中を歩きますが、踏み抜きが多く、さらに強風で体が煽られるので、思うような方向になかなか進めません。
なんとかこの岩のピークを越え、少し下るとようやく風が弱まり、尾根も広がって歩きやすくなりました。
目の前には扇ノ地紙、胎内山、門内岳と夏道では気が付かないくねくねと曲がった尾根の景色が広がり、その奥に激しく雪煙を上げる北股岳の姿が見えます。
登山道よりもやや山形県側を歩きますが、あまり寄りすぎないように、特にガスの中を歩く時は注意が必要です。扇ノ地紙の尾根は二段になっておりますが、今は雪庇で平らになりこれが胎内山まで続きます。胎内山からは雪庇がなくなり、夏道を辿って門内小屋に至ります。
門内小屋の新潟県側は凍りつき、山形県側は雪ですっかり埋まっていて中へ入ることはできません。
管理棟の風を遮る場所で一息つきますが、天候が崩れる前に安全地帯まで戻りたいと飛ばしたことと、アイゼンでの踏み抜きやラッセルの雪上歩行で、もはや疲労困憊の状態でした。門内小屋で15分ほど休憩した後、徐々に天気が崩れる中、意を決し北股岳に向かいました。
門内小屋から門内岳は僅かな距離ですが、膝上までのラッセルのせいで随分時間がかかりました。門内岳の山頂は雪の吹き溜まりになっていて、ギルダ原側に大きな雪庇ができています、これを乗り越えてようやくギルダ原に出ました。
門内岳山頂からギルダ原まで膝上のラッセルが続きました、行きは下りですが帰りのことを考えると思いやられます。
ギルダ原は風のため雪はほとんど積もっておらず、雪庇もありません。登山道を辿るのですが、最低鞍部までは非常に歩きにくいものでした。
最低鞍部からは山形県側に張り出した雪庇と登山道際を一直線に山頂に向け歩きますが、尾根から外れないように注意して歩かなければなりません。
ここから北股岳最後の登りです。夏道を登ることでさえ大変な苦しい登りなのに、アイゼンを着けた足でまだ固まってない不安定な雪上歩行に加え、上に行くにつれ風は強さを増し、疲れはピークに達してきており、一歩一歩が重くとても辛い。北股岳はすぐ目の前にあるのだが歩けど歩けど近づかない。時折、西の空に目をやるとどんどん雲が垂れ込め始め、頭上の青空は密度が減りつづけている。
登りの中腹で足が止まった、疲れで足が前に出なくなってしまいました。空の青空はまったく消え、凄まじい風と寒さが襲ってきます。まさかこんな山頂手前で引き返すわけにいかない。
ラッセル対策の筋力強化のため12月に入ると片足に2kg、両足で4kgの錘を常に着けた生活をし、錘を着けたまま毎日かかさず5km走った。残業で帰りが夜中になろうとも、雨や雪が降ろうと、数ある忘年会はすべて不参加にし毎日トレーニングを欠かさなかった。
それから私は今までいつどんな山行の時でもいつも重い荷物を背負い、人が嫌がるような悪いところばかり歩くようにしてきました、常に人が避けて通るようなところを進むようにいつも心がけました。
皆楽しく山に登っているときでも私はいつも正月の飯豊を意識して山に登り、それは何年も前からずっと続けてきたことで、すべて今日のためにしてきたこと。
毎年、年末になれば不安と苦悩を抱く日々が続き、夜は眠れず、正月の飯豊で雪崩や道迷い、滑落の夢は毎日のように見続け、恐怖心を覚えていた。
しかし挫折しそうになる心を必死で鼓舞し、耐え、やっと今ここまで来ることができた。
そんな思いをこの最後の苦しい登りに思いっきりぶつけた。
そして止まった足が再び動きだすと徐々に山頂が近づいてくる。夏道ならひょっこり標識が顔をだす北股の山頂も、今は雪の上を歩いているので少し手前から山頂標識が見え始める。そして2012年1月1日午前11時15分、無事に北股岳の山頂に立つことができました。
多くの会員の人たちによる暖かい支援により私は山頂に立つことができました。一時は退会まで真剣に考え、徹底的に一人を貫こうとしました。しかし私は一人にはなれませんでしたし、一人でもありませんでした、いつも会の皆さんが私にはついてくれているようです。
どんなに努力してもどんなに苦労しても、あの雪と風にまったく歯が立たず、会を挙げて何度も何度も登頂を拒まれ続けてきた正月の北股岳、登頂は私一人ですが、皆さんの気持ちは山頂に一緒でした。
無事に山頂に立てたもののカメラが作動せず、記念写真を撮ることができない。西から天気はどんどん崩れてきているようです
山頂には僅か3分、急いで北股岳を後にしました。
第六章 下山
徐々に迫り来る雪雲、強まり始めた強風の中、歩きにくいギルダ原を駆け抜けるように通過し、門内小屋に着いた時にはばったりと倒れこんでしまった。
腹が減ってもう動けない、風を遮る管理棟の陰で軽い昼食を食べるも猛烈に寒い!未開封のペットボトルの蓋を開けると、あっという間にシャーベットになった。
空はみるみるうちに雲が押し寄せ、今にも荒れそうな雰囲気に。
長居は無用、絶えず西の空を気にしながら急いで稜線を戻ります。
すると扇ノ地紙までくるとまるで奇跡が起きたかのように青空が戻り、風が止んだ。
地神山まで戻れば安心と思い、急ぎましたが、この空模様なら大丈夫、写真は撮れませんが、せめてこの目にしっかりとこの景色を焼き付けて帰ろうと、滅多に見ることのできないこの景色、登山が趣味の人でもこの景色を見られる人は限られている。
もう大丈夫、私はゆっくり正月の飯豊を楽しみながら歩くことに切り替えました。
無風の扇ノ地紙から見る北股岳は相変わらず激しく雪煙を上げていて、新潟県側の斜面はおびただしい数のエビの尻尾が覆い、山形県側は20m以上にも及ぶ大雪庇がせり出している。
ここは生命の息吹がまったく感じられない無表情な世界。
すべてのものを一瞬にして凍りつかせてしまう極限の世界。
まさにここは生と死の境目、だからこそ自然の持つ最大限の美しさがここにはあるのでしょう。
あまりにも美しすぎる氷の大地、風のない扇ノ地紙と地神山で私は二度、その大地に寝転がった。そして登りでは急ぐあまり良く見られなかったこの景色を、この先一生かけても二度と見ることが出来ないかもしれない正月の飯豊の穏やかな情景をしっかりとこの目に焼き付けて稜線を離れました。頼母木山を下りる頃にはあの強風が戻り、風雪が吹き荒れはじめ、冬の飯豊の短い青空は終わりを告げました。
終章 終わりに
今回の山行でたくさんあった反省点やいろいろ感じたこと、あるいはエピソードについてこの章では挙げておきたいと思います。余談というか、ちょっとしたおまけみたいな章になっております。
まずテン場について、今回は大ドミで3泊もしましたが、銀マットの上にエアーマットを敷いて地面と断熱をしております。それでも寝ている部分が少しずつ自分の熱で下がってきます。徐々にテントの底の下の雪は解けながら私の形に変化していき、3日目ともなると完全に私の形になっておりました。そこに横たわるとピッタリと自分の体がはまり、このテン場は世界で私だけのために作られたテン場ということになりました。それはまるで皮の登山口が最初は足に馴染まず靴擦れがおきたり、痛いところが出たりしますが、徐々に馴染んできて最後は自分の足型に変化するのと同じようだと思いました。
ただ自分の形に丸くなったところにコンロ置いて煮炊きをしなければなりません、その不安定さにとても苦労をしました。
一泊程度なら必要ないと思いますが、三泊ともなれば下はしっかり踏み固めてからテントを張るべきでした。
テントの撤収をした時はまるで石膏で自分の型をとったかのような雪の地面が現れ、とても愛しく感じてしまいました。
次は頼母木山の強風に遭遇した時に感じたことです、正月に頼母木山までは何度か登頂しております。毎回、登頂するたびにあの強風には驚かされると同時に貴重な体験ができたと思い、そして厳冬期の飯豊を行くにはあの風を克服しなければといつも思います。
前々から正月ということもありザックに小さな凧を括り付けて行ってみてはどうだろうと思っておりました。凧の浮力によりザックは軽くなり、もしかしたら凧の大きさの調整によりザックばかりではなく自分の体も軽くなるのではないかと考えております。
もし風がなかったらヘリウムガス入りの風船なんかが有効かと思われますが…。
次に感じたことは、やはりこのルートではどうしても外せない、特筆すべきトイレの話しです。
稜線に至るまで、山小屋が一切無く、すべてテント泊になるこのルートはもちろんトイレも青空トイレになります。
青空トイレとはものの言い様で、極寒猛吹雪トイレと言った方がここではピッタリきます。
凍える気温と飛ばされそうになるほどの強い風と横殴りの雪の中で風上に向かって座り、静かにズボンを下ろします。ここで大事なことは風上に向かって座ることです。もし風下に向かって座ろうものなら、出たものが自分に向かって飛んできます。
冷たく強い向かい風に耐えながらふんばりますが、通常であれば下腹部をふんばるものでしょうが、ここでは自分が飛ばされないよう足もふんばらなければなりません。要はひとふんばりで済むところ、ふたふんばりが必要になってきます。
手はかじかんで神経が鈍り、さらに雪が着いて塗れた手で紙を操作し上手く自分の手に付かないよう細心の注意を払って拭き取らなければなりません。ここで作業に時間を掛けてしまうと大事なところが凍傷、あるいは体が低体温症になってしまいます。
座っているときに、あまりの冷たさに目を閉じる。すると地鳴りのようなあの風の音がいつの間にか波の音に変わり、それは心地の良いさざ波に変わります。「あれ、ここは山なのに、どうして波の音が聞こえるのだろう?」そう思いながら閉じていた目を開けると私は水着姿のギャルに囲まれており、トロピカルジュースのサービスを受けております。
すっかり心地良くなった私は何もかも面倒臭くなり「あーもういいや!このままゆっくり眠ろう!」そう思ってふんばっていた足を緩めたとき、はっと我に返り「おっと危ない!」もう少しで雪に尻を着けるところだった、しかも自分のした物の上に…。
とまあそんなことで冬山では用を足すのにも命懸けになってしまいます、十分に心して作業に取り掛からなければならないということをお伝えしておきます。
それから1月2日はエブリ差岳を目指す予定でしたが、悪天候のために停滞をしておりました。その日、その停滞した中で少々感じたことをここで書いておこうと思います。
北股岳登頂の報告をいの一番にお世話になった坂場さんにメールで連絡をしました。
するとすぐに坂場さんから「一人、停滞の日は考えなさい」との返事がきました。
さすが坂場さん、私が危惧していたことをすんなりと答えてくれました。おそらく今回の登頂は天候や風といった気象条件に関して非常に好条件での登頂だったと思います。
もし途中で天候が急変した場合、あるいはもう少し悪天の状況で強行した場合等、今後のことを考えると、手放しで喜んでばかりはいられません。
なぜ登頂できたのか?あるいは自分なりにこうした方がもっと良かったことがあったのではないか?多くの反省点や改善点はあるはずで、これから先につながるよう、飯豊に限ったことでなく他の山行でも役立てられると思い、考えてみることにしました。
うーん、しかしいざ考えてみようと思っても、下山したら鮨が食べたいとか、早く布団で足を伸ばして眠りたいとか、4日間も風呂に入ってないので自分からすっぱい臭いがするが、それは身体のどこからか?とかそんなことを考えてしまい、どうも私は余計な雑念があまりにも多くありすぎてちっとも考えることができません。
しかもいろいろ考えているとすぐに眠くなり、もう面倒臭くなって、眠気覚ましも兼ねて除雪をしようとテントから出てみました。小1時間ほどで除雪を済ませたあと、雪球を作り近くの木を目がけて投げてみると、球は僅かに逸れて通過していきました。「おしい!」再び雪球を作ってまた投げる、そしてまた・・・。結局、薄暗くなるまで夢中で必至に雪球を投げて遊んでおりました。言わば一人雪合戦です。
夜になってようやく慌てて反省点と改善点をあれこれ考えてみました、自分としては珍しく必至に、一生懸命考えてみたのですが、残念ながらまとめることはできませんでした。
翌日、下山のためテントを撤収していると床から抜け落ちた私の髪の毛がいっぱい出てきて、やっぱり考えすぎは良くないものだということが分かり、これが今回の最大の反省点だと思いました。
最後に
下山後、一足遅れの新春初売りに石井スポーツへ出掛けました。すると今回の北股岳登頂が口コミで広がって話題になっていたようで「正月は大活躍だったそうで」とか「登頂おめでとう」と多くの方から声を掛けられちょっとビックリしました。
でも私は自分一人の力で登頂したなんてことは微塵にも思っていません、多くの方々の協力があったからこそ、運にも恵まれ登頂できたのだと思っています。
自分自身で今回の山行を振り返り、細かい内容を考えてみると正直なところ反省の弁しか出てきません。これは本当で、稜線を歩きながら思い通りにできなかったことや不本意だったところがたくさんありました。
ただ私自身、今回の山行に関してひとつだけ自慢できることがありました。
私は特に体力があるわけでも、技術や知識があるわけでもありません。
しかし、今年は気象条件が最悪で、北股岳の登頂は絶望的に思われたこともありましたが、絶対に諦めませんでした。
必ず晴れると信じ、万全の準備をして正月に備えてきました。その諦めなかった姿勢が登頂に結びついたと、そのことに関してだけは唯一、私は人に胸を張って言うことができます。
コースタイム
12月30日
7:00奥川入荘-8:12大曲り-10:50西俣峰
12月31日
8:00西俣峰-9:40枯松峰-9:50大ドミ-10:20大ドミ中腹(テン場)
1月1日
5:00起床-6:20出発-7:00三匹穴-7:40偽頼母木-8:00頼母木山-9:00地神山-9:40扇ノ地紙-10:00~10:15門内小屋-11:15~11:18北股岳-12:00~12:20門内岳-12:45~12:55扇ノ地紙-13:20~13:35-地神山-14:00~14:05頼母木山-14:50三匹穴-15:20テン場
1月2日
停滞
1月3日
8:15テン場-10:05~10:15西俣峰-12:00奥川入荘
お世話になった方々
送りサポート
坂場さん、石井さん、金井さん、新井田さん
迎えサポート
田邊さん、中村(義)さん、新井田さん
通信サポート
佐久間さん、小国山岳会の髙橋さん
サポートやそれ以外、諸々お世話になった方々
小国山岳会の井上さん、奥川入荘の横山さん、山でほんの少しの出会いでしたが新潟山岳会のサポートの方々と本隊のhodakaさん、yasuさん、そして下越山岳会会員の皆さん
本当にどうもありがとうございました。